楽語(34)「ケプラーとツィオルコフスキー」

ヨハネス・ケプラーとコンスタンチン・ツィオルコフスキー。お二人は、生きた時代や国が違いますが、境遇や生き方が似ております。本日は、このお二人について、お話ししたいと存じます。よろしければ、最後まで、お付き合いください。

えー……ヨハネス・ケプラーは1571年12月27日に神聖ローマ帝国の自由都市(ドイツの南西部)で生まれました。4歳の時に天然痘にかかり、視力が低下……両手も不自由になってしまいましたが、これらの障害を克服してテュービンゲン大学に進みました。そして、神学・天文学・数学などを学びました。

天体に対する関心は昔からあったようでございます。
1593年には、「月の上の観測者に天文現象はどのように見えるか」ということを主題にして論文を執筆いたします。1594年からはグラーツの学校(現在のグラーツ大学)で数学と天文学を教えるようになり、1596年には、コペルニクスの地動説を支持する本――かなり長い題名の天文学書――を出版いたします。
あのぅ……今からその題名を申し上げますが……どうか、驚かないでくださいませ。よろしうございますか、まいりますよ。
『宇宙論に関する秘密を含む、宇宙論に関する論文の予告――天球の驚異的な規模について、また、5つの正多面体によって証明される、天の数、大きさ、周期的運動の真の独特の原因について』。はい、以上でございます。
私めの感想は「す、すごい!」でございます。

この本を出したことでケプラーの人生は変わります。パドヴァ大学の数学教授ガリレオ・ガリレイからは、「自分も何年も前からコペルニクスを支持している」という意味の手紙がまいります。神聖ローマ帝国の数学官ティコ・ブラーエからは、「あなたの推測は独創的だと思うが、惑星の距離についてコペルニクスが出した値は不正確だ」という意味の手紙がまいります。
ケプラーはティコと1年以上、文通をつづけまして……1600年にティコのお城を訪れます。その際に「共同研究者にならないか」というお誘いを受けます。ケプラーは同意いたします。しかし実態は助手だったようでございます。ティコのもとで働くようになったケプラーは辛酸をなめます。
ところが、翌年の10月24日、ティコが急死。その結果、ケプラーがティコの仕事を引き継ぐことになります。身分も帝国数学官ということになります。
1605年、彼は惑星の運動に関する法則――現在、「ケプラーの第1法則・第2法則」と呼ばれている経験法則――を発見いたします。そして4年後に、『火星の運動への論評によって扱われる、原因あるいは天の自然学に基づいた新天文学』――彼の代表作と言われる『新天文学』――を出版いたします。また、その年の夏に、『夢もしくは月の天文学』という題名の月旅行記を執筆いたします。彼はこの作品を知人・友人に読んで聞かせますが、書き写すことも許可いたします。
翌年の5月、ケプラーは、月は地球と同様の物体だとするガリレオの説に賛同し、『星界からの報告者との対話』を出版いたします。このおり、「衛星」という言葉を考案いたします。ラテン語で「従者・随伴者」を意味するsatellesという言葉に、新たに「衛星」という意味を付け加えたのでございます。

えー……ここまでは幸福だったと言えるかもしれません。1611年からは悲惨なことがつづきます。
1611年の2月には長男フリードリッヒが天然痘にかかって死亡。同じ年の7月には妻のバルバラが伝染性の熱病にかかって死亡。1612年の1月にはパトロンであったルドルフ2世が崩御いたします。
ケプラーは1613年にズザンナと再婚……その後、6人の子を授かりますが……4人の子が相次いで亡くなります。
1620年には母親のカタリナ・ケプラーが魔法を使ったとして逮捕されます。ケプラーは、月旅行記の中にケプラー母子に似た記述があったため告発されたのではないかと考え、弁護士を二人雇い入れます。そして、母親の弁護のために心血を注ぎます。さらに、月旅行記に長文の注釈と図を入れてゆきます。
母親は1621年の10月に釈放されますが、半年後に病死いたします。その8年後、ケプラーも病死いたします。1630年の11月15日のことでございますが……都に行く途中の町で寒波に襲われ、発熱し、衰弱し、息絶えたのでございます。
念願の本――注釈入りの『夢もしくは月の天文学』――が出されたのは、死後4年目のことでございました。実は、この書、先駆的かつ科学的な啓蒙書でございまして、万有引力とラグランジュ点の存在を予言する物でございました。最後に……彼の注釈をふたつばかり、引用させていただきます。

「私は『重力』の定義を磁気力に似た引き合う力とします。この力は、近接している物体間では大きく、遠く離れている物体間では小さいのです」
「地球の重力と月の重力がそれぞれ反対方向に引く力によって打ち消されると、体がどちらの方向にも全く引かれないという状態になります」

さて、コンスタンチン・ツィオルコフスキーは1857年 9月17日にロシア帝国で生まれました。
帝政時代の彼は不遇でございまして……9歳のときに猩紅熱にかかり、それがもとで聴力を喪失。学校には通えなかったため、13歳で独学を開始。22歳で教師の免許を取り、中学校で数学を教えるようになりました。そのかたわら、『月の上で』、『地球と宇宙に関する幻想』などのエッセイを執筆。1883年には宇宙論文を著わし、「随伴者」を意味する「スプートニク(Спутник)」というロシア語を「人工衛星」の意味で用いました。

1897年には「ツィオルコフスキーの公式」を発表。これは、噴射ガスの速度が大きくロケット点火時と燃焼終了時の質量比が大きいほど、大きな速度を得られるということを示すものでございました。
1903年には『反作用利用装置による宇宙探検』を発表。これは、世界初の実用的な「ロケット工学」論文でございました。彼は、地球の回る最小の軌道に求められる軌道速度を計算し、液体燃料を用いた多段式ロケットならば達成可能であることを示したうえで、液体水素と液体酸素の使用を提案したのでございます。
1916年以降、彼は、『月世界到着!』などのSF小説を執筆。宇宙服、宇宙遊泳、軌道エレベータ、宇宙ステーションなどのアイデアを次々と発表いたしました。
もっとも、彼が評価されたのは、ロシア革命後のこと。彼は1935年の9月19日、78歳で永眠いたしました。
彼の夢が実現したのは、1957年の10月4日のこと。ソビエト連邦が世界初の人工衛星「スプートニク1号」を打ち上げたのでございます。

さて、生前、ツィオルコフスキーが放った名言をご紹介して、この小咄を終わらせていただきます。
「今日の不可能は、明日可能になる」





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