尾道市の民話(かんざし燈籠)・3

               八坂神社〜尾道市久保2丁目

                民話に残る「かんざし燈籠」


文化文政(1804〜1829)のころ、今の新開は花街として栄えていたんよ。芝居小屋の客引きの声や行き交う人々で、すげえ(とても)賑あっていたんじゃ。
 ある芝居小屋の片隅に、いつもじっとうつむいて立っている娘がいたんじゃ。
 かすりの着物に赤い前垂れをかけていたその娘は、芝居小屋のお茶子じゃったんじゃが、おとなしい娘じゃったんでお客もとることもできず、他のお茶子たちの働きぶりをジッと見ているだけじゃったんじゃ。
 「あんたも早ようお客をとらにゃいけんよ」と仲間に言われても、コクンとうなずくだけでなかなかお客をとることができんかったんじゃそうな。
 お茶子というのはのう、芝居を見に来たお客を座席に案内し、座布団を出し、お茶、菓子、酒、弁当までも引き受けて世話をする仕事なんじゃ。
 客はそういうお茶子に心づけとしていくらかのお金をわたすんじゃ。金額は決まっておらず、お茶子がもらえるのは客の気持ちしだいということなんじゃ。
 金を少しでも稼ぎたいお茶子は、一人でもたくさんのお客を世話をしようと、時にはお客の奪い合いもあったんじゃそうな。
 この日も芝居小屋の隅で、娘はジッと立っていたんじゃ。
 その時「席空いてるかのう」と、突然声を掛けられて娘が顔を上げると、目の前に一人の若者が立っていたんじゃ。
 娘は若者を大切にもてなし、心をこめて世話をしたんじゃ。
 言葉は少なく物静かにもてなしは、若者の心を芝居よりも娘の方に向けさせてしもうたんじゃ。
 その日以来、若者は毎日芝居小屋に通うようになったんよう。
 娘の方も、日が重なるにつれて、若者を待つようになっていったんじゃ。
 狭い街のことじゃ、若者と娘の仲はすぐ街中に広まり、若者の両親の耳にも入るようになったんよのう。
 「お前、お茶子と仲良うしておるという噂じゃが、立場を考えにゃあいけん。なんちゅうても、うちは浜問屋じゃけのう。」厳しい口調の父親に、息子はとりすがって言うたんよ。
 「分限者と貧しい者とに、どれだけの違いがあるんじゃ。あの娘は心のやさしい良く気の付く娘じゃ。父さんいっぺん会うてくれんかのう、会うてくれりゃあの娘の良さがわかるけえ」
 「ダメじゃ、お茶子ふぜいと」
 このような親子の言い争いがどれだけ続いたことか。
 結局根負けした浜問屋の主人は「それほど言うなら、いっぺん会うてみるかのぉ」ということで娘に会うことになったよのぉ。
 驚いたのは娘の親じゃった。
 「何でこぎゃぁな貧しい家の娘を……」
と言いながらも、できるだけのことはしてやったんよのう。
 娘は、親の精一杯の仕度で着飾り、浜問屋の暖簾をくぐったんじゃ。
まちかまえていた浜問屋の主人は、娘の上から下までジロッと見るなり
「フンフン。あんたがお茶子さんじゃな。べっぴんさんじゃが、今どきの娘さんが、かんざし一つもたんということはどういうことじゃろうかのう」
と言うたんようのう。娘の方はそれを聞いて、あとの言葉が全然入らんようになって、どうして良いか分からんようになってしもうたんじゃ。
「着物から草履まで買うてもろうて、かんざしまでも買わにゃぁいけん言われても、うちにゃぁ、そぎゃなわがままは言えん」
 娘はかんざしを恨みながら、近くの井戸に身を投げて死んでしもうたんじゃ。
 その日から、明神さんの大きいイチョウの木の下に、娘の幽霊が出るようになっつたんよのう。
「かんざしを下さい。かんざしを下さい」という幽霊のか細い声は、人々の心を揺り動かしたんじゃ。
「可哀想にのう。あの娘さんの供養じゃと思うて、かんざしの形の燈籠を建ててやるのはどうじゃろうかのう」
 誰言うこともなく出た話は、すぐにまとまったんじゃ。
街の人々は、高さ4メートルほどもあるかんざしの形をした石燈籠を建て、可哀想な娘の霊を慰めたんじゃ。
 それからというもの、娘の幽霊はぱったり出んようになったんじゃ。
よっぽど嬉しかったんじゃろうのう。
 今も明神さんのかんざし燈籠は、在りし日のお茶子娘のように。ひっそりと立っておるんじゃ。
 これで、かんざし燈籠の話は終わりじゃ。
続きはまたのう。
 (参考〜尾道民話伝説研究会発行“尾道の民話・伝説”)
 
  

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