「モディリアーニ」真実の愛


 物語の筋も結末も分かっていながら観てしまうのは、忠臣蔵の様なものかもしれないが、それを決意させるポイントは「誰がやっているか」だろう。イタリア出身の様で実はキューバ生まれのアンディ・ガルシアが、過去の役作りで印象付けた刹那的で頽廃的なイメージが、モディリアーニをして激情的な作画活動と終焉に向け、いかに流されて行ったかを見届けたいという欲望を抑えることは出来ない。

 中学の頃に画家を夢見るようになったのは、朴訥でへんてこりんな、絵の教師の影響が大きかったのだろうが、家のそこらに転がっていた薄っぺらな数冊の画集の中に、バルビゾンの田舎画家ミレーや、これが本当の色彩画家なのかと疑われるような(単に印刷が悪かっただけのことだが)むちゃくちゃに色数の多いボナールなどの中にゆったりと長く伸びる裸婦画を見付けた時のショックが、まだ青い心臓に突き刺さったからのような気がする。

 稼ぐようになって最初に買った画集はゴッホやセザンヌではなく瞳の無いモディリアーニであったのは、多分に彼の生き方死に方があの裸婦の線とダブってしまっていたからに相違ないし、今でも上京し上野の西洋美術館にある彼の絵(今は展示してない)の前に立つと呼吸が浅くなって興奮してしまうのは、単純化と誇張に特化された彼ならではの絵と共に、自分の絵を描くために信念を曲げなかった、決して認められることの無かった不遇なモジに共感するものがあるからだ。

 モディリアーニといえばジェラール・フィリップ(モンパルナスの灯、共演アヌーク・エーメ)であって心情的には俺自身でもあり、アンディ・ガルシアのモジに成り切るのに時間を要したのはやむを得ないが、モンパルナスの激情と退廃が良く似合うようになるのは、売れない絵を求道的に描きながら、酒と麻薬とに溺れて行く生活力のない男の哀れを、げっそりした顔で演じ切った後半からだろう。酒びたりのユトリロや食うものにも事欠くスーチンに親身の手を差し伸べるアンディ・ガルシアがモディリアーニになったと思えるではないか。

 この映画の最大の見所は、妻ジャンヌとの知られざる愛の物語ではなく、サロン出品のために画家達が知力体力を傾け、己の才能を信じ、ひたすら描きまくる殺気立つような数分間の作画シーンだろう。専門的な目で見れば少々陳腐なシーンがないとは言えないだろうが、目くるめくショットの連続は少しでも絵を描いた事のある人(学生時代は皆描いたのだが)にとって、思わず手が動くような衝動を呼び起こされるに違いない。そして「一枚描いてみようと」画家になった様な気分になる人も多い事だろう。

(監督、ミック・デイヴィス 共演、エルザ・ジルベルスタイン)



   


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