ギリシア世界7 ヘレニズム時代 その2

  ベッソス処刑の後も、進軍はとまりませんでした。
  しかし、部下たちはもう満足です。有り余るほどの金銀財宝を奪い、広大な領土を手に入れました。あとは故郷のマケドニアやギリシアに帰り、残してきた家族に豊かな生活をさせてあげたいのです。
  でもひとり、アレクサンドロス大王だけは満足していません。さらに征服戦争を続行し、もっと広大な領土を支配したいと考えていました。

  ベッソスを追ってバクトリアに侵入した頃から、だんだん部下たちとの間で、意見の対立が起き始めます。
  実際、バクトリアやソグディアナの人々は、強大なマケドニア軍に正面切って戦いを挑んだりはしません。いわゆるゲリラ戦法で、少しずつマケドニア軍の体力を奪っていくのです。
  部下の多くが、こんな戦いの中で疲れていってしまいます。
  そんな前328年、ついに悲劇が起きてしまいました。アレクサンドロスの無二の親友で、一番の側近だった、クレイトスという人物がいました。グラニコス川の戦いのときなんか、アレクサンドロスの背後に襲いかかった敵兵の腕を切り落とし、間一髪のところでアレクサンドロスの命を救っています。
  しかし、彼は生粋のマケドニア人。アレクサンドロスとしては、現地の人々の協力を得なければ、こんな広大な領土の支配なんかできないと考えています。これに対してクレイトスは、異民族の風習なんか受け入れられないと、面と向かって大王に意見します。そんな険悪な状態がしばらく続いていました。
  前328年、クレイトスがバクトリア総督に任命されることになりました。親友の大出世を演出したアレクサンドロス大王。ご機嫌で、盛大な祝賀会を開きました。しかしクレイトスは、ペルシアの儀式にのっとって総督になるなんてお断りだと、またアレクサンドロスに口答えします。それで頭に来たアレクサンドロスと大喧嘩になるのですが、泥酔していたアレクサンドロス、怒りにまかせて、槍でクレイトスを刺し殺してしまいました。
  我に返ったときには、クレイトスはすでに虫の息。このあとアレクサンドロスは、3日3晩部屋に引きこもり、ずっと叫び続けていたといいます。



  それでも進撃は止まりませんでした。前327年、ついにインダス川を越え、インドに到達します。しかしこの地で、マケドニア軍は巨大な怪物を操る、未知の軍団に襲われることになるのです。そう、インド人はを戦に利用するのです。
  前326年、インド西北部のパンジャーブ地方に侵入したマケドニア軍は、現地の王と戦います。ヒュダスペス河畔の戦いといいます。
  この戦い、マケドニア軍が勝利したのですが、ずっと一緒に戦ってきた、愛馬ブケファロス、この戦いの最中、象に踏み殺されてしまいました。
  戦勝を記念して、アレクサンドロスは2つの町を建設しました。そのうちの一つに、愛馬の名前を付けています。すなわち、アレクサンドリア=ブケファリア。ちなみにもう一つは、アレクサンドリア=ニカイアです。

  この後も、アレクサンドロス大王は全インドの征服を主張し、進み続けようとします。しかし、マケドニアからついてきた腹心の部下たちは、このときすでに334人にまで減っていました。兵士たちはこれ以上の進軍はいやだと怒りました。さすがのアレクサンドロスも、一人ではインド征服なんてできません。しかたなく引き返すことにします。

  こうしてめちゃくちゃ広い領土を手に入れたアレクサンドロス大王ですが、こんな広い領土を支配するためには、現地の有力者の力がなければ不可能です。そこで考えたのが、合同結婚式。
  前324年、アレクサンドロスは、ペルシアの王女2人と結婚します。同時に自分の部下1万人も、ペルシア貴族の娘と結婚させます。スサの合同結婚式といいます。
  あくまで、ギリシア人が支配者となるのですが、現地の文化を尊重し、これを維持することで、民衆の支持を得ようとしたのです。
  でも部下たちは、マケドニアにちゃんとした奥さんを残しています。それを放っておいて、現地で妻をめとり、そこに住み着けと命令されるわけですから、内心ムカムカだったでしょう。

  部下の気持ちを知ってか知らずか、今度はアラビア遠征を計画します。
  そんな矢先、大王は熱病にかかってしまいます。その前の晩、大宴会を開いてワインをがぶ飲みしていた大王、次の日起きたら、熱が出ていたのです。意識はもうろうとし、熱は何日も下がりませんでした。そして10日後、あっけなく死んでしまうのです。享年32歳。
  彼は死ぬ直前、部下に「あとを継ぐやつを決めてくれ」と問われ、「最強のものが継げ」と答えて死んでしまったので、誰が最強なのか、決めなければならなくなってしまいました。

  こうして始まったのが、ディアドコイ戦争です。ディアドコイとは「後継者」の意味です。そのまんまですね。でもこの争いの中で、王妃のロクサネと息子たちは、みんな殺されてしまいました。そして巨大な帝国は、最終的に3つに分裂することになります。
  分裂が決定的となったのは、前301年イプソスの戦い。このとき、後継者最有力候補だったアンティゴノス1世が殺されてしまったので、帝国を一つにまとめることができなくなってしまいました。
  前333年イッソスの戦いと、前301年のイプソスの戦い、ややこしいので間違えないように気をつけましょう。



  アレクサンドロスの大帝国は、最終的に3つに分裂します。すなわち、本国であるマケドニア・ギリシアを領有するアンティゴノス朝マケドニア、シリアを本拠地に、最も広大な領土をもったセレウコス朝シリア、そして、エジプトを領有し、最も繁栄したプトレマイオス朝エジプトの3つです。



  マケドニアでは、ギリシアの新興都市同盟が反抗を続け、どんどん衰退していきます。
  またシリアでは、前250年頃にギリシア人の支配者が独立してバクトリアという国を建てたり、同じ頃ペルシア人が独立してパルティアという国を建てたりして、どんどん衰退していきます。
  でもエジプトだけは、「ナイルの賜物」のおかげでとても繁栄しました。エジプトのアレクサンドリア市は、人口100万を数えました。たぶん、当時の世界で最も人口の多い都市だったはずです。
  すべてがそろったアレクサンドリア市は「ないものは雪ばかり」と称えられるほどでした。加えて、王立研究所・ムセイオンアレクサンドリア大図書館が建てられ、学問の中心地としても重要な地位を占めていました。ムセイオンでは、後世に名を残す、何人もの科学者が研究していました。何人か紹介します。全部めちゃくちゃ有名な人なので、覚えてください。
  まずは、円周率の発見やてこの原理、「水中の物体は、その物体がおしのけた水の重量だけ軽くなる」という「アルキメデスの原理」を発見したアルキメデス
  現代数学の基礎である「ユークリッド幾何学」の始祖・エウクレイデス(英語読みだとユーリッド)。
  地球の円周を約40000キロと計算したエラトステネス
画像は19世紀に再現された、エラトステネスの世界地図。経緯線が引かれてます。左上がヨーロッパ、左下がアフリカ大陸、そして右半分がアジアです。(Wikipediaより)


  天動説の集大成「アルマゲスト」を著したプトレマイオス。天動説というのは、地球が宇宙の中心で、太陽とか星とかの天体は、地球の周りをまわっているのだという説。別にプトレマイオスが最初に考えたわけじゃないけど、彼がそれまでの天動説を体系化し、間とまたわけです。
(写真はWikipediaより)



  まあこれくらいでしょうか。みんな有名な人なので、本当に覚えてね。

  さて、3つに分裂した帝国ですが、結局3つとも滅ぼされてしまいます。前168年にマケドニア、前64年にシリア、そして前30年にエジプト。全部ローマが滅ぼしました。

  文化的には、ペルシアにあった伝統的な文化にギリシアの文化が流入し、これらが融合して新しい文化が発生しました。ヘレニズム文化といいます。
  ギリシア人は自分たちのことをヘレネスと呼んでいたよね。だからヘレニズム文化とは「ギリシア人の文化」という意味なんです。そしてギリシア人が支配していたので、共通語もギリシア語(コイネー)でした。
  とはいえ、それ以前からこの辺ではアラム語が共通語として使われていたので、意思の疎通は結構ちゃんとできていたようです。
  この文化、遠くアジアを旅して、何と日本にまで到達しています。奈良県明日香村の法隆寺の柱、上でも下でもなく、真ん中の部分が少し膨らんでいます。この様式は、かのパルテノン神殿と同じです。エンタシスの柱といいます。
(写真はWikipediaより)
パルテノン神殿の柱。

法隆寺の東院伽藍廻廊。



  というわけで、アレクサンドロス大王の活躍は、案外日本にも影響を及ぼしているのでした。

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