ローマ世界5 ローマ帝国

  天下を取ったオクタウィアヌスは前29年、元老院のプリンケプス(元首、名簿上、最初に書かれる人)になります。「私は、確かに様々な権力を手にしましたが、今でもローマ市民の一人にすぎません。これから先も、ローマは共和政の国なんです」とアピールしたのです。
  養父のカエサルは元老院をないがしろにしたから、結局暗殺されてしまいました。父の二の舞にならないために、(一応)元老院を立ててあげたのです。元老院議員たちはとても喜びました。
  そして前27年、元老院はオクタウィアヌスにアウグストゥス(尊厳者)の称号を与え、オクタウィアヌスに皇帝になってくれとお願いします。もう誰も、彼に逆らえないことを元老院も認めた瞬間でした。これ以降、オクタヴィアヌスはアウグストゥス帝と呼ばれます。
  完全に皇帝と変わらないんですが、ローマはあくまで共和政なんだよとアピールしたので、これ以降の時代をプリンキパトゥス(元首政)といいます。でも実際、彼は皇帝そのものだったので、この時点で、ローマは共和政から帝政に移行しました。
  ちなみにこのオクタヴィアヌス、何月生まれだと思いますか? 正解は8月なんですが、8月は英語でAugustでしょ。これはアウグストゥスからとって名づけられたのです。加えて7月はJulyですが、これはユリウス=カエサルのユリウスです。彼は7月生まれだったので、7月の呼び名にしてしまったのです。これが原因で、Septemberは本来「7」を意味するのに9月に、Octoberは「8」なのに10月になってしまいました。2ヶ月ずつあとに押し出されてしまったのです。
  彼の治世の前4年頃、かのイエス=キリストが誕生します。イエスが本格的な布教活動を始めるのは次のティベリウス帝の時代です。
  イエスの話は、また別の機会に改めてお話しします。



  アウグストゥス帝の時代も、ローマは大きく領土を拡張しました。エジプトや北アフリカが領土に編入され、ライン川より東側の大ゲルマニアへと軍を進め、一時的にではありますが、占領に成功します。
  しかし後9年に行われたトイトブルク森の戦いで、ウァルス総督率いる25000のローマ軍が壊滅してしまいました。
  その結果、ローマの勢力圏はライン川西岸まで後退します。アウグストゥス帝のゲルマニア征服という野望はとん挫し、ローマとゲルマニアの境界は、ライン川とドナウ川でほぼ確定しました。

  アウグストゥス帝以降しばらく、ローマには大きな混乱は起きませんでした。とはいっても、結構激しい事件は起きています。
  例えば後54年に17歳で皇帝に即位したネロ帝。彼は最初の5年間はすごく良い政治を行ったんだけど、ポッパエアという愛人にそそのかされて、母親と妻を殺し、弟も殺し、妊娠した愛人も蹴り殺し、その後、街角で見つけた美少年をさらってきて、去勢して結婚しました。そして無駄遣いをして国庫を空にしてしまいました。
  それから彼の治世の64年、ローマ市内のほとんどを焼き尽くした大火事が発生します。当然、多数の死傷者が出たのですが、この大火事、ネロが放火したんじゃないかといううわさが出回ります。実際、彼は焼け跡に、巨大な黄金の神殿を建てたのです。その敷地をつくるために放火したんじゃないのか、というんです。
  このうわさにはネロも困ったようで、真犯人を仕立て上げなければならなくなりました。そこで白羽の矢が当たったのが、当時まだ新興宗教のひとつだったキリスト教だったのです。
  キリスト教徒の多数が、犬にかみ殺されたり、夜の灯火として十字架に貼り付けられ、燃やされました。これがキリスト教徒大迫害の始まりです。
  その挙句、ネロ帝は68年に元老院から「国家の敵」という宣告を受けてしまい、自殺してしまいました。
  こんなとんでもない皇帝がいたこともあったんですが、概ね平和が続きました。

  ネルウァトラヤヌスハドリアヌスアントニヌス=ピウスマルクス=アウレリウス=アントニヌスの5人の皇帝を、五賢帝と呼びます。この時代が、ローマの一番幸せだった頃でしょう。
  このうち、二人目のトラヤヌス帝の時代に帝国の領土は最大になりました。彼の時代に獲得した領土は、ドナウ川北方のダキアという地域です。ダキアは現在のルーマニア。ルーマニアとは「ローマ人の国」という意味です。今でもこの国の住人は、ローマ人の子孫だということを誇りに思っているのです。
  トラヤヌス帝は、初の属州出身の皇帝です。ヒスパニアで生まれました。
  ハドリアヌス帝で知っておいた方がいいのは、ブリタニア(イギリス)に現在も残る「ハドリアヌスの長城」。ブリタニアに住んでいたケルト人を北へと追いやり、この長城を国境としました。現在も、ちょうどイングランドとスコットランドの境界線とほぼ一致しています。
  それからもう一人、五賢帝最後のマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝。彼は優秀なストア派哲学者でもありました。晩年に「自省録」という哲学書を著しています。その甲斐あって、死後「哲人皇帝」と呼ばれました。
  でも彼の時代から、ローマに不穏な空気が流れ込んできます。
  東方からパルティア帝国が侵攻してきました。なんとか追い返すことに成功しますが、味方の兵隊が、敵地で伝染病(たぶん天然痘)をもらってきてしまい、これが帝国全土に広がります。こうして人口が激減、追い討ちをかけるように、飢饉も襲いました。
  加えて170年頃から、ゲルマン人の活動が活発になり、これへの対応で、国庫はまさに火の車となります。
  こうして、安定の時代は終わりを告げるのです。

  アウグストゥス帝からマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝までの約200年間を、「パクス=ロマーナ(ローマの平和)」と呼びます。
  この時代は、アジアとの東方貿易が活発に行われた時代でもあります。海では季節風貿易が、陸では隊商貿易が盛んに行われました。
  アジアとの東方貿易が活発化した理由の一つに、中国で後漢が安定した政権を築いたことが挙げられます。ユーラシア大陸の東西に安定した政権があったので、二つの帝国を行き来する商人たちが、大いに活躍できたのです。
  2世紀中ごろには、後漢に「大秦王安敦」の使いと名乗るものが訪れたという記録が残っています。「大秦」とはローマ帝国のこと。「安敦」はマルクス=アウレリウス=アントニヌスのことです。
  それに、インド南部や東南アジアなど、各地でローマの金貨が発見されています。
  中国からは絹、東南アジアからはコショウなどの香辛料といった品々が、ローマ帝国へと流れていきました。
  東西の安定にあやかって発展することができた国として、インド南部のサータヴァーハナ朝が挙げられます。この国は、ローマと漢の発展によって支えられ、これらの衰退・滅亡によって引きずられるように消えていきます。
  受験で聞かれるかもしれない「ヨコの世界史」的テーマです。
  東方貿易はローマ人の欲望が主な原動力だったので、ローマは外国からの輸入超過で、金がどんどん海外へ流出してしまいました。
(写真はWikipediaより)

これはセプティミウス=セウェルス帝の金貨。

  この時代のそのほかの特色といえば、征服した各地域に軍が駐屯地を設けたことでしょう。それが次第にローマ風の都市へと変化していきました。
  有名なところでは、ロンディニウム(ロンドン)、ルテティア(パリ)、メディオラヌム(ミラノ)、ウィンドボナ(ウィーン)などです。みんな現在の中心的な都市ですね。
  ローマ人は文化・芸術の分野では、あまりオリジナリティを発揮できず、ほとんどギリシア文化の模倣に終わっています。しかし、土木建築や法律などの実用的な分野では、大いに才能を開花させました。
  征服地を広げるたびに、頑丈な道路を敷いていきます。その手始めは、前312年から建設が始まったアッピア街道。ローマと南イタリアのブリンディシウムという街まで続く、全長570kmに及ぶ街道です。そこからどんどん伸びていって、舗装された幹線道路だけで8万キロ、砂利道の支道を含めると15万キロに達します。全部つなげると、およそ地球4周分です。この道が町と町をつなぎ、人々は活発に動き回りました。
(写真はWikipediaより)


  そしてどこの町にも水道が引かれます。南フランスにあるガール水道は、今でも水が流れている、立派な水道橋です。世界遺産にも登録されています。
(写真はWikipediaより)


  また人々の娯楽を催す競技場なども立てられました。ローマに今も残る、有名なコロッセオ。グラディエーター(剣闘士奴隷)たちが、命をかけて無産市民を喜ばせました。このような円形競技場(アンフィテアトルム)がどの町にも建設されました。
(写真はWikipediaより)


以上、ローマの一番幸せだった頃でした。





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