箕輪初心★【織田信長@尾張の大うつけ→尾張統一】

『 なかぬなら 殺してしまへ 時鳥(ホトトギス) 』 という歌が
織田信長の人間性を表すとして有名であるが、肥前国の平戸藩
(長崎県)藩主:松浦静山『甲子夜話』に収録された歌の引用だ
そうである。非常に短気な性格だったらしい。自分が神様=絶
対的権威であり、家臣には厳しく冷酷であったと言われている。
家臣は織田信長を畏敬の念=恐怖&尊敬の気持ちを持ってい
たらしい。回りから、破壊&虐殺で多くの恨みを買ったという。
武術・相撲・水練・鉄砲の訓練など武芸の稽古を怠らず、武
勇に優れていた。戦術・知略を発揮し領土を拡大する中で戦
国の常識を次々とくつがえしていった。古い常識・権威・慣習
にとらわれない考えの持ち主だったらしい。

 (★清洲古城の織田信長の像)

 (★清洲城武将隊桜華組の濃姫・藤吉郎)

◆◆ 織田信長の生涯 ◆◆

・家系図
   http://www.oyakatasama.com/oda/kakeizu.html
※尾張国の守護大名:斯波義重の被官。
尾張守護代:清洲織田大和守家
(※尾張下四郡=海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡の守護代)
  の家老で分家=「織田弾正忠家」で清洲三奉行:古渡城主。
 
  ※織田信長の祖父:織田信定は古渡城主。
  ※織田信長の父:織田信秀は津島に近い勝幡城に居城 
経済力を拡大・・・
今川義元から那古屋城を奪って、居城とした。
末森城(千種区城山)を築城。

【1】尾張のうつけ者
・天文3年(1534)5月12日 
  織田信秀の嫡男:織田信長の誕生(勝幡城)
※3男だが、正妻:土田御前の子であった。
  http://www.oyakatasama.com/oda/kakeizu.html  
  ※最近の有力説・・尾張国の勝幡城で生まれた。
  ※従来の説・・・・那古野城=名古屋城二の丸で生誕。

  幼名は吉法師。
  ※父には可愛がられていたが、乳母たちの乳首を噛み切って
  しまったりと癇の強い子だったためか、母には可愛がられ
  なかったらしい。母は弟:信勝(信行)を溺愛した。

・天文4年(1535) ?那古野(★なごのと読むそうだ)城主。

 母:土田御前が織田信秀の正室であったため嫡男となり、
 3男ながら正室の子であったため、後継者として育てられた。
 2歳説・3歳説・4歳・9歳説があるので、不明。
妹はお市の方(市の娘は茶々=淀君・初・江)。

 

・天文11年(1542)8歳。松平清康(徳川家康の父)の死亡。
    →父:織田信秀は三河に侵攻。
  織田信秀が安祥城に侵攻。勝利。
今川義元は岡崎城まで反撃。
    第1回の小豆坂の戦い
     ※織田側が優勢であった。


・天文14年(1545) 数え12歳。 13才。古渡城にて元服。
         織田三郎上総介信長を名乗る。
○少年時代・・・「尾張の大うつけ」
 織田信長は合戦ごっこが好きだった。
 (後に、親衛隊の前田利家や池田恒興がそのまんま)
 腰に瓢箪をぶら下げ、奇妙なふるまいと服装を好み、
 町中にて柿や餅を食べ歩いたりしたらしい。
 また、身分にこだわらず、町の若者とも戯れていた。
 「尾張のうつけ者」とますます評判になる。
 ★まんがはオーバーだから、不明。

・天文15年(1546) 14歳。三河吉良の大浜出兵
  =織田信長の初陣
※平手政秀のの箴言を聞き入れず、ど派手な衣装で出陣。

・天文17年(1548) 16歳。第2回の小豆坂の戦い
   今川義元が勝利。今川氏の尾張国内の支配城
   @鳴海城(名古屋市緑区鳴海)、
   A大高城(名古屋市緑区大高)、
   B沓掛城(豊明市沓掛町)
   ※情勢は今川方が優勢であった
   
   織田氏の勢力は尾張・三河の国境線から後退
   @鳴海城対策・・丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を築城。
   A大高城対策・・丸根砦、鷲津砦を築城。
   ※鳴海城、沓掛城との連絡を遮断。

 竹千代=徳川家康は今川義元への人質として護送
   される途中、松平氏家臣:戸田康光の裏切りで、織田
   信秀の元に護送されてきた。信秀策略説もある。
   6歳の松平竹千代(後の徳川家康)と仲良しになった。

・天文17年(1548) 平手政秀が和睦交渉。
   父:織田信秀と敵対していた美濃国:斎藤道三との和睦が
   成立。証として斉藤道三の娘:奇蝶=濃姫との政略結婚
   の運びとなった。
   
  2月24日 15歳。 濃姫と結婚

・天文18年(1549) 16歳。 

・天文20年(1551) 17歳。 父:織田信秀が没。家督を継ぐ。
 父の葬式に髪を派手な紐で縛り、袴もつけず着流しで現れた。
 仏前に進み出て、いきなりお香を鷲づかみにし、位牌に投げ
 つけて帰りひんしゅくを買ったと、どのまんがにもあった。
 
 織田信長の奇行は相変わらず続く。
 主筋の「織田大和守家」の清洲城下に数騎で火を放った
 こともある(伝)。

 ○日本へ伝わった種子島銃に関心を持った。
    近江の国友村に火縄銃500丁を注文した(伝)。




・天文21年(1552)18歳。
織田信長は尾張を統一しなければならなかった。
 8月 那古屋の戦い
   清須城の織田信友家老:坂井大膳2000の那古屋に侵攻。
織田信長は足軽歩兵軍団の集団戦で軽く勝利。  

  鳴海城の山口左馬之介は今川義元に寝返った。 

・天文22年(1553)19歳。
尾張は今川氏の尾張侵攻により守護の斯波氏の力が衰え、
  尾張下四郡を支配した守護代「織田大和守家」清洲城主:
  織田信友が実権を掌握していた。
  織田信友は信長の弟:織田信行(信勝)の家督相続を支持して
  織田信長謀殺計画を企てた。
  傀儡にされていた守護:斯波義統が、計画を織田信長に密告。
  織田信友は斯波義統の嫡子:義銀が川狩に出た隙に義統を殺害。
  斯波義銀が織田信長を頼った。
  織田信長は「織田信友を主君を殺した謀反人」という名目が
  でき、叔父守山城主:織田信光と協力し、殺害した。

  →主家:織田信友に勝利。下克上成立だった。
  「織田大和守家」は滅び、織田信長が勢力を拡大した。

  ●織田信長の教育係:平手政秀が自害。
   諌死説? 織田信長の素行を諫(いさ)めるために切腹。
   息子:五郎右衛門と信長の確執説?・・不明。
   織田信長は師匠:沢彦和尚を開山として政秀寺を建立。
   
  ※「織田信長」吉本直志郎著ポプラ社では、
平手政秀が奇人を装えとアドバイスした。
   今川の侵攻を遅らす手だてとあった。
   諫言を装ってのしだという。
 ※「織田信長」中島俊之学研まんがでは、
織田信長自信が、今川義元を欺く手段として
まず、味方から騙すとあった。

  ●織田信長は正徳寺で斉藤道三と会見。
斉藤道三は農家の陰から、こっそり覗いていた。
極端に長い長槍・鉄砲隊の多さにビックリ〜〜〜。
   斉藤道三は「うつけ者」と呼ばれていた信長の器量
   を見抜いたとの逸話がある。
  
・天文23年(1554)20歳。 村木砦の戦い
   織田信長は今川義元軍に勝利。

【2】家督争い→尾張統一
・天文23年(1554)20歳。 織田信長は清洲城に移転。
那古野城から清洲城へ本拠を移した。

 (★清洲城から清洲古城を望む)






 (★清洲古城=信長時代の城)
  尾張国の守護所を手中に収めた。
  →織田氏の庶家の生まれであった織田信長が織田氏の
  頭領となった。
  織田信光も死亡しているが、不明である。

・弘治元年(1555)21歳。 
       

・弘治2年(1556) 4月 長良川の戦い
  義父:斎藤道三が子:斎藤義龍との戦いに敗れて戦死。
  織田信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで
  出陣。斉藤義龍軍に苦戦。
  斉藤道三の敗死の知らせにより退却。

   @弟:信勝(信行)を擁立派 VS A織田信長擁立派  
@林秀貞(通勝)・林通具・柴田勝家ら
   A森可成・佐久間盛重・佐久間信盛ら
  両派は対立する。

  8月24日 稲生の戦い
  斉藤道三の死去を好機と見た織田信勝派は、挙兵→敗北。
  末盛城に籠もった織田信勝を包囲。
  生母:土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免。
  
  庶兄:織田信広も斎藤義龍と結んで清洲城の奪還を企てた。
   未遂。織田信広は程なくして降伏し、赦免されている。

・弘治3年(1557)24歳。織田信長は弟:信勝(信行)を暗殺。
  織田信長に通じていた柴田勝家の密告
  織田信長は病と称して織田信勝を清洲城に誘い出し殺害。
  直接手を下したのは河尻秀隆とされている(伝)。

  浮野の戦い
  織田信長は、同族の犬山城主:織田信清と協力し、
  旧主家「織田大和守家」の宿敵で織田一門の宗家であった
  尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の
  守護代「織田伊勢守家」(岩倉織田家)の岩倉城主:織田
  信賢を破って追放。

   守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の石橋氏・吉良氏と
   通じて織田信長の追放を画策していることが発覚すると、
   斯波義銀を尾張から追放した。

・永禄2年(1559)尾張の支配権を確立。 26歳
   織田信長は尾張の国主となった。
   2月2日 織田信長は100名ほどの軍勢を引き連れて上洛。
        室町幕府13代将軍:足利義輝に謁見。
        足利義輝は尾張守護:斯波家の邸宅を改修して
        住んでいた。

【3】桶狭間の戦いから清洲同盟へ
・永禄3年(1560) 桶狭間の戦い 26歳
※今川義元の動き・・未だ、尾張は不安定と見ている。
・永禄3年(1560)
 5月10日(6月3日・・今川義元は先方隊として、井伊直盛
       ・松平元康(徳川家康)を三河に派遣。
 5月12日(6月5日)
今川義元は大軍を率いて駿府を発ち、尾張を目指して
 東海道を西進。藤枝泊

★明日は「桶狭間の戦い」かな?


★参考文献
 「織田信長」吉本直志郎著 ポプラ社
 「織田信長」中島俊之著 学研まんが

 「織田信長」小和田哲男著 小学館
 「織田信長」日本の100人
 「信長戦記」 CG日本史シリーズ

「信長の城・秀吉の城」安土城考古博物館
「戦国ウォーキング」

 「桶狭間への道」水野誠志郎 2012年6月1日初版

 など多数を参考に作成。





織田信長の天下布武日記 (武ログ壱) (武ログ 1)
二玄社
武ロガー右筆衆

ユーザレビュー:


Amazonアソシエイト by

織田信長(4) 天下布武の巻(山岡荘八歴史文庫 13)
講談社
山岡 荘八

ユーザレビュー:


Amazonアソシエイト by

BIGLOBEニュースロゴ

ニュースをもっと見る

最近の画像付き記事