箕輪初心★新島八重周辺C『住谷悦治』=同志社大学学長

住谷天来は若い頃、新島襄に会った。新島襄の同志
社一期生の前橋教会:不破唯次郎から洗礼を受けた?
住谷悦治は同志社大学で新島八重との関わりがあった。
新島八重は昭和7年(1932)死去なので、12年近くは
話をすることがあったであろう?

住谷天来・住谷悦治&住谷磐根兄弟・・・★凄い一族である。
最近は、群馬文学全集第20話、内村鑑三、群馬のキリスト
教、『住谷天来と住谷悦治』みやま文庫などを読んだ。

 (みやま文庫の写真より)


◆◆ 住谷悦治って誰?  ◆◆
@国府小学校の額と絵
住谷天来・住谷悦治の名前を知ったのは25年程前である。
木造校舎時代の国府小学校に、住谷悦治先生の額が玄関正面
にあった。また、住谷悦治先生の弟:住谷磐根氏の畳一畳程の
油絵も国府小学校に展示されていたので名前だけは知っていた。

A住谷輝彦氏に2回話した。
近藤義雄先生の「群馬町国府」の散策の時、住谷輝彦氏に
会ったことによる。近藤義雄先生は「住谷天来先生・住谷悦治
先生・住谷磐根先生」について教えて下さった。
共愛学園創設関係者:住谷天来先生・・・
同志社大学総長:住谷悦治先生・・
埼玉県の某市の名誉市民:弟・住谷磐根先生・・・

B母の話
近藤義雄先生の話の夜、母に住谷一族のことを聞くと
「母の従兄弟は住谷一族の親戚先と結婚している。」・・で、
余計興味を持った。

C音楽恩師:高橋貞春氏と住谷悦治氏との出会いの話

私の音楽恩師:高橋貞春氏と会う機会があった。私が
「ウィーンのベートーベンの家巡りをフリーで4軒回りま
した。ベートーベンのハイリゲンシュタット遺書の家にも
行きましたよ。」というの話をした。



高橋先生が
「俺は、ウィーンのベートーベンのハイリゲンシュタット
遺書の家の近くに下宿していたんだよ。その時さ。・・
(2〜3軒隣のような記憶もあるが)
ビックリしたことがあったんだ。何と群馬県人に会ったん
だよ〜。住谷悦治先生と会ったんだよ。レッスンのため?
(※高橋先生の師匠は市立音楽院:ミハエル・ロゼー先生)
・・・家を出た時、100m位出た時かなあ?
日本人らしき人がいたので、日本語で、
「今日は。」
と挨拶した。私はクラリネットのケースを持っていた。
そしたら、俺の姿を見て、
「クラリネットを吹いていたのは貴方でしたか?」
という話になってね。・・
名前を聞けば、「住谷悦治。同志社大学の学長だった。」
などなど・・・
※家は200m程しか離れていなかったらしい。
お互い群馬県の箕郷町→群馬町同志で仲良くなった。
高橋先生は
「夕飯にも時々呼ばれたんだよ。」
という話をしてくれた。

◆◆ 高校の先輩:中村氏かな? ◆◆
http://homepage3.nifty.com/kosi/wien/up150/up150.html

◆◆ 箕輪初心★高橋貞春ミニコンサート ◆◆
@ http://53922401.at.webry.info/201010/article_31.html
A http://53922401.at.webry.info/201110/article_25.html
B http://53922401.at.webry.info/201210/article_28.html


D『住谷天来と住谷悦治』みやま文庫
最近は、群馬文学全集第20話、内村鑑三、
群馬のキリスト教などを読んだ。



【0】住谷一族の系譜
・宝徳2年(1450) 伊賀国の角谷藤治郎へ越後→信濃→上野国
・戦国時代 8代目:角谷が住谷治郎右衞門と改姓。
・元禄期     住谷天来の先祖が分家
・天保2年(1830) 住谷弥一郎永明・・・俳人
・幕末      長男:住谷孝三郎博信・・・俳人
三男・住谷明信・・・・・・俳人
・明治時代   住谷明信の長男:久太郎が 住谷天来に影響を
        及ぼした。
(★住谷悦治長男:住谷一彦氏の記述)



【0】家系

 (★みやま文庫:住谷輝彦氏作図)
住谷弥次平
+・・・長男:友太
妻:せい + ・・長男:亮一
妻:軟  次男:悦治・・一彦
    三男:三郎・・輝彦・春也・正樹・眞弓
   四男:磐根
   五男:鉄身
   六男:申一
   七男:完爾

   ★次男:天来・・穆・・・・・萬里&千里&九里

●住谷天来・住谷悦治・住谷磐根の生家の話
高崎市東国分町508−1である。
現当主は住谷輝彦氏である。
★遊びばだった国分寺跡




【1】住谷天来
◆◆ 箕輪初心★住谷天来 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201302/article_20.html
★住谷天来の非戦論は凄かった。聖書の重要部分を用いて非戦論
を展開しているのだ。



【2】住谷悦治
●明治28年(1895)12月18日〜昭和62年(1987)10月4日
日本の経済学者。同志社大学名誉教授。同士社大学元総長。

・明治28年(1895)12月18日群馬郡国府村東国分
         (高崎市東国分町)で生まれた。
・明治35年(1902) 国府小学校
   前橋中学→第二高等学校・・・
叔父の住谷天来より利根川岸で洗礼を受けた。

・大正?年(????) 東京帝国大学法学部入学。
東大新人会に属す。吉野作造・牧野栄一の感化を受けた。
  大正時代における民本主義(Democracy)の言論家として
  知られる吉野作造の門下生となった。

 (★みやま文庫の写真)

・大正11年(1922) 東京帝国大学法学部卒業。
吉野作造教授から推薦を受け、
  同志社大学助手に奉職。経済学史担当。

・昭和元年(1927)同志社大学教授

・昭和7年(1932)新島八重死去。
 ★12年近くは八重と話をすることがあったであろう。

・昭和8年(1933)治安維持法違反で逮捕された。

「拷問の話」・・・7月19日、・・・
下賀茂署の3人の刑事と称する者は入って来た。・・・
・・・たわいもなく下賀茂署に引き立てられてしまった。
取調室に入ると、紙と鉛筆を持たされ、「今までしたこ
とを書け。」と言う。
今までしたこと言っても、漠然として分からない。・・・
・・・系譜図が書いてある。
同志社
   丸川賢太郎・・・林 要
長谷部文雄
住谷悦治
ははあ、これは誘導尋問的な誘いだな。・・・
・・・私は3時間程じっとしていた。
「強情な奴だ。・・野郎・・・」と声がしたと同時に
櫻満直(刑事)が・・・両手を後ろに回して麻縄で縛り、
・・・私の膝やももをいやという程、ぐちゃぐちゃに
なるかと思われるほど踏んだ。踏んだ。・・痛いの痛い
のって、・・気が遠くなるほどだった。
…下品な男が、剣道の竹刀を持って、私の膝やももを
叩いた叩いた。しかし、その刑事が
「川上肇も佐野学も容赦しなかった。貴様一人の
命がなんだ。」・・・私は気を失った。・・・
 私は留置所に担ぎ込まれた。・・・
両ももが常陸山か梅ヶ谷のそれかと思うほど太々と
腫れ上がっていた。小便をするのもさるまたがぴったり
と両ももに張り付いて・・・脱げないのだ。
・・・・
・・・一週間も経つと、紫黒にももが変わっていた。
拷問・・・
    「50圓を・・渡した。」という、手記をかけという。
    皮膚病といんきんたむしで・・・
1ヶ月経つと、国分検事がきて、・・・
「50圓を・・事情を知って渡した。」・・・
立派に法文上の犯罪が構成され、事件が片付いた。
・・・何が何だか・・・
結局、教職を退き、失業と皮膚病と筋肉の痛みをもらった
だけだった。・・・

  【住谷天来と住谷悦治】みやま文庫
 
  同志社大学教授を退職を余儀なくされた。
 
※住谷一族みんなで

 (★みやま文庫の写真)

・昭和9年(1934) 渡欧。ウィーン留学。
文藝春秋欧州特派員としてロンドン・ベルリンに滞在。
「萩原朔太郎氏の詩の独訳」・・・ベルリンの人達は恐ろ
しく、犬が好きらしい。・・・
ビールもよく飲む。
今日は・・・音楽鑑賞は・・・



・昭和12年(1937) 松山高等学校教授
著書の発禁・・退職。

・昭和20年(1945) 夕刊京都新聞社論説部長
ジャーナリストとして精力的に論説活動を展開。

・昭和21年(1946) 夕刊京都新聞社社長
         愛知大学法経学部教授。

・昭和24年(1949) 同志社大学経済学部教授。

・昭和25年(1950) 経済学博士の学位を取得。

・昭和38年(1963) 同志社総長に就任する。〜〜〜12年間

・昭和50年(1975) 同志社を退職。
  
・昭和51年(1976) 同志社名誉教授。

・この頃、ウィーン長期滞在。
★私の音楽師匠:高橋貞春氏にあったのであろう。

・昭和60年(1985) 同志社名誉文化博士の称号を受けた。
・昭和62年(1987) 死亡。91歳。

★参考文献・・・『住谷天来と住谷悦治』みやま文庫
        『上毛人物めぐり』正木四郎著



【3】住谷磐根・・・明治35年(1902)〜平成9年(1997)
●住谷悦治の弟。
・明治35年(1902) 生まれ。
・大正10年(1921) 18歳で、日本水彩画展に入選。
上京して川端画学校に学ぶ。
・大正12年(1923)20歳 10回二科展にイワノフ・スミヤビッチ
   という名で出品。
 「工場に於ける愛の日課」Daily Task of Love in a Factory
 油彩・麻布 65.3×53.2p
絵を本格的に描きはじめて2年で二科展に入選。
 ・・★これって凄くねえ?
 
村山知義のマヴォの結成に参加。
反二科の野外展計画に共鳴した彼は、二科展開幕の日に
入選作2点を撒去した。
@帝展勢力・・・東京美術学校系のピラミッド世界?
A二科展勢力・・帝展に対抗する第2勢力。
B新興美術・・・第3勢力=マヴォ等反抗勢力
  当時の美術界の動静が透けて見えるようなエピソードである。
・大正13年(1924) 三科造形美術協会創立に参加。
・昭和元年(1927) 牧野虎雄に師事。
         槐樹展に出品
・昭和?年(????)海軍従軍絵画通信員・・・・住谷磐根
「・・・一人の中尉が試し斬りをすると、軍刀を持っていこうと
するので私もついていきました。行くと、埠頭の突端に鉄の柵があ
り、そこから先はコンクリートで護岸されていまして、ここに、
四、五人ずつ並べて後から銃剣で突いてコンクリートに落として
いました。日本兵は二十人ほどで、中国兵が千人弱いました。そ
れを見ていた中尉は、試し斬りをする気も失せてしまいました。
私が懐中電灯をつけて見ていましたら、兵隊から、そこにいると
返り血を浴びると言われましたので、それをしおに帰りました。
 翌朝、早く起きて行ってみると、コンクリートには死屍累々で、
数えてみると八百人ほどの死体がありました。中には死にきれずに
手を動かしている者や、ごそごそ動いている者もいました。銃剣
で後から刺すだけですから死なない兵もいます。揚子江はまだ増
水していませんでしたが、増水すれば護岸コンクリートぎりぎりの
ところまで来ますから、流れてしまいます。これがあとで南京虐殺
と言われたものだと思います。」
 (★『「南京事件」日本人48人の証言』P.276 )
◆◆ 下記Hpよりの引用 ◆◆
http://homepage3.nifty.com/hirorin/nankin02.htm


【4】住谷申一
住谷悦治の弟
同志社大学教授・・・人文学会・社会学者、
『満州日報』論説委員などを務めた。


【5】住谷一彦
住谷悦治の子
経済学者・・立教大学名誉教授
●昭和20年3月に徴兵の赤紙がとどいた。
私は海軍予備学生を志願した。志願の受付地は岩国だった。
岩国は私の住んでいた四国の松山からも近かったので助かった。
・・・翌日すぐに列車に乗せられて岩国を発ち、下関から船で
玄界灘を越え、朝鮮の釜山に着いて、また列車で北上した。
そのうちに鴨緑江を越えて満州に入った。
奉天では満州日々新聞の新聞記者をしていた叔父の「住谷申一」に
会うことができた。
奉天から列車は一路南下して大連から旅順に向かった。
◆◆ PR誌『評論』176号:思い出断片 (11) 
  海軍予備学生だった頃 住谷一彦  ◆◆ ・・引用
http://www.nikkeihyo.co.jp/critiques/view/47

【6】住谷馨
住谷悦治の子
社会福祉学者・・・同志社大学名誉教授



【7】住谷悦治先生の弟:7男:完爾

 ★かみつけの里博物館の事務室に展示されている。
  住谷完爾先生の絵「飾履」




★明日は高崎の城かなあ?

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