箕輪初心★『土方歳三の35年の生涯』

★幕末期の幕臣:新選組副長。新選組時代には、「鬼の副長」と呼ばれ、
隊士たちから畏敬の念〜恐怖された。戊辰戦争では旧幕府軍の新選組
指揮官のとして活動した。旧幕府軍の弱腰の姿勢と統率力のなさの中
で、伏見→淀→大坂城と撤退し、会津で過ごした。北海道では「蝦夷
共和国」の軍事参謀に任ぜられた。明治2年5月11日、箱館五稜郭の
防衛戦で戦死した。享年35歳。

(★歴史読本「土方歳三)

◆◆ 土方歳三の生涯 ◆◆

【1】武蔵の日野時代・・丁稚奉公→書道→天然理心流
・天保6年(1835)
2月5日 父:土方隼人が結核で死亡。
 5月5日 武蔵国多摩郡石田村(現東京都日野市
    石田)の豪農:土方隼人と恵津の間に生まれる。
     10人兄弟の末っ子。

・天保11年(1840) 6歳 母が結核で死亡。
     次男:喜六と妻:なかに養育された。

・少年期・・土方歳三は、乱暴な少年であったらしい。
      土方歳三は「武士になりたい。武士になったらこの竹
      で矢を作る。」と言って植えた(伝)。

・嘉永元年(1848 )14歳。で奉公に出た。・・?
※弘化2年(1845)11歳説もある。(★歴史読本「土方歳三」)
  ※奉公時代は14歳〜24歳の10年間が有力説。
※上司と喧嘩して、日野まで歩いて帰ってきた。


・天保12年(1841) 17歳。「松坂屋呉服店」(現松坂屋上野店)へ
奉公した。

・その後、松坂屋の支店「江戸伝馬町の木綿問屋=亀店」
  に奉公した。
  
・土方歳三は木綿問屋=亀店時代にHに走ったとも、間違っちゃった
 とも言われているが、女性を妊娠させてしまった。
 暇を出された。

・土方歳三は松坂屋を首になり、実家の「石田散薬」を行商した。
 ※土方歳三は文芸に勤しみ、書道も習っていた。
 師匠は★上州下仁田の市河米庵の弟子で、親戚の本田覚庵に
 習っていた。
 
・嘉永4年(1852) 26歳。 天然理心流を習い始めた。
姉:のぶはん:日野宿名主:佐藤彦五郎に嫁いでいた。
 佐藤彦五郎は自宅の一角に道場を開いていた。
 高幡不動を稽古場所として使っていた(伝)。
 ※甲州街道沿いの剣術道場で他流試合を重ね、修行を積んだ。
  
・安政6年(1859)
 3月 天然理心流「試衛館」(※新宿区牛込)に入門。
 ※叔父:佐藤彦五郎は試衛館:近藤勇と義兄弟の契りを結んでいた。
 ※土方歳三は天然理心流の師範代:近藤勇と出会った。

・万延元年(1860)
  土方歳三は試衛館:天然理心流の師範代
   クラスになっていた。沖田総司もいた。

・文久元年(1861)
   近藤勇が天然理心流宗家4代目を継承。
   土方歳三は紅組の大将役で出場した。

・文久3年(1863)
  2月 将軍:徳川家茂警護のための浪士組に
  天然理心流の近藤勇・土方歳三などの一門が応募した。
庄内藩士:清河八郎に呼応し、小石川の伝通院に行った。
※尊皇攘夷論者の清河八郎には、別の意図があった。
 「浪士を攘夷の先兵とすること」が目的だった。
松前藩脱藩浪士:長倉新八が近藤に情報を入れた説もある。



【2】京都時代・・・新選組発動。
・文久3年(1863)
  1月 1番〜7番までの230余名は京都へ赴任した。
水戸の芹沢鴨は道中取締手附だった。

近藤勇は6番小頭であった。
6番隊・・土方歳三・山南啓助・沖田総司・長倉新八など・・
壬生村の八木家などに分宿した。
29日、 清河八郎は江戸帰還を提言。
  →土方歳三らは反対した。
  壬生浪士組を結成した。
  2月 近藤勇派 VS 芹沢鴨派
京都市中警護の任を得るため、連盟で嘆願書を提出。
3月12日 会津藩:松平容保の預かり
近藤組・芹沢組13名+斉藤一など4名+α=24名
 

※八月十八日の政変
  会津藩+薩摩藩 VS 尊皇攘夷過激派公家+長州藩 
結果・・・会津藩+薩摩藩の勝利。
    尊皇攘夷過激派公家+長州藩を追放。

(★写真は、会津藩主:松平容保の金戒光明寺)


  壬生浪士組→◆◆新選組◆◆が発足。発動である。
芹沢グループは狼藉が多かった。
 
 ・9月16日 土方歳三&沖田総司などが芹沢鴨を暗殺した。
  近藤勇が局長&土方歳三は副長(★実質的な指令)。
  →近藤の右腕として京都の治安維持にあたった。
  副長助勤、監察などが組織された。

・元治元年(1864)
6月5日 池田屋事件
 新選組は長州藩士・土佐藩士らが頻繁に出入りしていた池田屋
  の応援に駆けつけた。直ちに突入せずに池田屋の周りを固め、
  後から駆けつけた会津藩・桑名藩の兵を池田屋に入れなかった。
  新選組の手柄にするためであった。
  ★土方歳三の冷静沈着な機転が有力説である。
「誠」の旗を使った。

 →政変での恩賞は破格であった。
   会津藩がバックにいたからである。
「新選組」の名前が下賜された。
  天下に「新選組」の勇名が広がった。

 
7月19日 蛤御門の変
長州藩が、会津藩&薩摩藩連合軍と激突。
長州藩が大敗。
新選組は九条河原に布陣。 

→江戸幕府から近藤勇を与力上席・隊士を与力との内示が出た。
 土方歳三は「近藤を大名にするため待つように。」と説得した(伝)。
  
 土方歳三は違反規律&罰則&切腹の規律を作った。 

 その後、副長:山南敬助を総長にした。
  副長は土方1人となった。
  山南 VS 土方・・・があったらしい。 


・慶応元年(1865)  
 山南啓助が脱走・・・切腹となった。
 その後、河合耆三郎、谷三十郎、武田観柳斎らを切腹・斬殺。
  
・慶応2年(1866)  
土方歳三は、新選組拡大のため、隊員集めに奔走した。
将軍:徳川家茂の二条城までの警護の大役を果たした。



・慶応3年(1867)
3月〜 新選組の内紛・・伊東甲子太郎などの離反宣言など。
     

6月  土方歳三は幕臣に取り立てられた。
11月 土方歳三は伊東甲子太郎などを殺害命令を出した。



【3】戊辰戦争開始〜〜〜新選組の団末
10月14日 徳川慶喜が将軍を辞して、大政奉還。
12月9日  王政復古の大号令。
       ※幕府は事実上崩壊。

近藤勇は墨染事件で負傷した。
 土方歳三は近藤の代わりに新選組をまとめた。
 慶応元年頃から、洋式軍備を進め始めてはいたが・・・。


・慶応4年(1868)戊辰戦争が勃発

 (★その時歴史が動いたの画像)
1月3日 鳥羽・伏見の戦い
夕方、下鳥羽や小枝橋で、薩摩藩兵と大目付:滝川具挙の
  衝突が起こった。伏見でも戦が始まった。
  新政府軍5,000名(主に薩摩藩兵)VS 旧幕府軍15,000名

旧幕府軍の敗戦理由・・
(★その時歴史が動いたのビデオ)
圧倒的な優勢な兵力を生かしきれず、新政府軍に負けたのは
  総指揮官:竹中重固は土方歳三の意見を全く聞かなかった。
  @鳥羽での総指揮官の不在・・徳川慶喜に会いに
        大坂に小船で向かった。
    旧幕府軍は狭い街道での縦隊突破を繰り返した。
  A滝川具挙の逃亡
  B新政府軍の薩摩小銃隊約800名の銃撃の威力
伏見では、伏見奉行所付近で幕府歩兵隊、会津藩兵、土方歳三の
  率いる新選組が新政府軍(薩摩小銃隊約800名)に敗れた。
  伏見奉行所は炎上した。


1月4日 
@鳥羽方面・・・旧幕府軍が一時盛り返した。新政府軍の反撃を受けて
  指揮官:佐久間信久らが戦死・・・
  富ノ森へ後退した。
A伏見方面・・・土佐藩兵が新政府軍に加わった。
  旧幕府軍は敗走した。
 徳川慶喜は「負けるわけない。」と思っていた。
(★NHK大河ドラマ「八重の桜)
 
 新政府軍は、仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任命し、
 「錦の御旗」持って、乗り込んできた。
 新政府軍が官軍となったのである。

(★その時時代が動いた)
 ※岩倉具視の勝手に作った御旗説もある。

1月5日・・・淀の戦い
 伏見の旧幕府軍は淀千両松に布陣して新政府軍を迎撃したが敗退。
 鳥羽の旧幕府軍も富ノ森で敗戦。
 ・・・老中:稲葉正邦の淀藩を頼って、淀城に入り戦況の立て直し
  をはかろうとした。
  しかし淀藩は4日朝までとは異なり、城門を閉じ旧幕府軍の入城
を拒んだ。(稲葉正邦は当時江戸に滞在。藩主抜きでの決定)。
 旧幕府軍は、男山・橋本方面へ撤退する。
 この戦闘の最中、新選組主要幹部隊士:井上源三郎が戦死した。
 この戦闘で新撰組隊士の3分の1が戦死した。

1月6日 橋本の戦い

 旧幕府軍は石清水八幡宮の鎮座する男山の東西に分かれて布陣した。
 西の橋本は遊郭のある宿場で、土方歳三率いる新撰組の主力などを
 擁する旧幕府軍の本隊が陣を張った。
 東に男山、西に淀川を控えた橋本では、戦略的には旧幕府軍が
 優位であった。

 しかし、対岸の大山崎を守備していた津藩が朝廷に従い、
 対岸から旧幕府軍へ大砲で砲撃をしてきた。
 土方歳三をはじめとする旧幕府軍は、思いもかけない砲撃を受けた。
 旧幕府軍は戦意を失って総崩れとなった。
 淀川を下って大坂へと逃れた。


1月5日 大坂城の徳川慶喜は「大坂城での徹底交戦」を説いたが、
  夜、老中板倉勝静・老中酒井忠惇・会津藩主:松平容保・桑名藩主
 :松平定敬とともにに密かに城を脱し、大坂湾に停泊中の幕府軍艦
 :開陽丸で江戸に退却した。
※会津藩軍事総督:神保長輝は将軍:徳川慶喜と松平容保に恭順を
 進言したと言われている。

 でも、逃亡を知らない土方歳三は、必死で戦っていた。

 総大将の逃亡で旧幕府軍は大坂を放棄して、江戸や自領等へ帰還
 した。
 神保長輝は陣営が残った。
 敗戦の責任をとり、自刃することになる。

1月7日 朝廷から「慶喜追討令」が出され、旧幕府は朝敵となった。

1月9日 新政府軍の長州軍が大坂城を接収し、
      京・大坂は新政府軍の支配下となった。

1月中旬 西日本諸藩および尾張藩・桑名藩は新政府に恭順した。

1月25日 旧幕府は日本の政府機関としての地位を失った。

2月   東征軍が進軍を開始する。

旧幕府方は15000人の兵力を擁しながら、5000人の新政府軍に敗れた
・・新政府軍が圧倒的な重火器を擁していたことが大きい。
 以後、戊辰戦争の舞台は江戸の上野戦争や北越戦争→会津戦争、
 箱館戦争となっていった。

(★その時、歴史が動いた・・ビデオ&本)
 


【4】新選組の敗北→会津流離
鳥羽・伏見の戦いで敗れた幕府軍が大坂から江戸へ撤退した。
土方歳三らは富士川丸で江戸に戻った。

・慶応4年(1868)
1月12日 近藤勇・土方歳三達は江戸品川に着いた。
建場茶屋「釜屋」を宿にした。

1月15日 隊士の負傷を見舞った。
新選組は106人が江戸に戻って来たことになる。

2月3日  元込銃5挺を購入。
 待ち受けていたのもは、再戦ではではなかった。

2月12日 上野寛永寺の徳川慶喜の護衛役になった。




中仙道を進む東山道軍を甲府城を拠点に
食い止めれば、100万石を新選組に
あたえるという。・・・勝海舟の策略らしい?
 (★歴史読本)
3月1日 江戸→東京
新選組→甲陽鎮撫隊と改称。
近藤勇は大久保大和・土方歳三は内藤隼人と名乗って
     甲斐に向かった。約100名だった。

3月2日 土方歳三は姉夫婦と再会した。

3月5日 甲府から出陣

土方歳三は援軍要請へ向かったが成功しなかった。

3月6日 甲州勝沼の戦い・・・敗戦。
   板垣退助200 VS 甲陽鎮撫隊100
     


3月8日 長倉新八がリーダーとして八王子に戻った。

3月10日 新選組の内部分裂
長倉新八・・・会津へ落ち武者といて行くと主張。
近藤・土方・・流山で新選組再起を図ってから会津へ

4月1日 新選組は流山に移動。味噌の長岡屋に宿泊。
4月3日 近藤勇は新政府軍に包囲され、投降。
    土方歳三が近藤の切腹を止めて投降を勧めたと言われて
    いる。
土方歳三は新選組を山口二郎=斎藤一に託して会津へ向か
    わせ、自分(土方歳三)は江戸へ向かった。
    しかし、勝海舟らに近藤勇の助命を嘆願したがだめった。

    土方歳三は江戸城に登城した。

   佐倉藩江戸留守居役:依田学海に
   「戎器は砲に非ざれば不可。僕、剣を帯び槍を執り、
   一も用うるところなし」
   と語った。
 
・4月11日 江戸城開城

土方歳三は、江戸を脱出。島田魁ら数名の隊士のみを連れて、
   大鳥圭介らが率いる旧幕臣のいる鴻之台に向かった。
旧幕府軍と合流。

・4月12日 旧幕府軍
大将:大鳥圭介(旧幕府歩兵奉行)&参謀:土方歳三
旧幕府諸藩隊・会津&桑名の脱走兵など約2500程。
3軍に別れた。先鋒軍・中軍・後方軍?
先鋒軍・・・土方歳三は秋月登之助の率いる1000人の参謀。
中軍・・・・大鳥圭介の率いる約400人
後方軍・・・約1000人。長倉新八もいた。

  新政府軍に恭順している下館・下妻に使いを送り、恭順を放棄
  させようとしたが、藩主不在を理由に断られた。

・4月18日 中軍と合流・・・約1500 
       宇都宮城の戦い・・・勝利。



・4月21日 壬生城の戦い・・・敗戦。


・4月23日 宇都宮城の戦い・・敗戦。

   土方歳三は足指に被弾=負傷。
   本軍に先立って会津へ護送されることとなった。



・4月25日 近藤勇は板橋刑場(現JR板橋駅前)にて処刑=斬首
        された。

【5】会津での療養&会津戦線
慶応4年:明治元年(1868) 4月〜
土方歳三は会津七日町の清水屋に逗留。
   約3ヶ月間の療養生活を送った。
    近藤の墓を天寧寺に建てた(伝)。


閏4月 山口次郎=斉藤一を新選組の隊長にした。
白河口に出陣した。

5月27日〜 会津藩主:松平喜徳(のぶのり)は猪苗代湖を一巡し、
    福良(郡山市)に滞在した。
土方歳三も福良に行った。

7月1日 新選組は羽太村(現天栄村)から出陣・・敗戦。

7月上旬・土方歳三は全快して戦線に復帰。
      新選組と合流。
須賀川口に後退した。

7月26日 三春藩&守山藩が降伏。
 ★三春城、近日紹介予定。


7月29日 二本松藩が降伏。

◆◆ 箕輪初心●福島:『二本松城』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201305/article_8.html


8月18日 会津藩兵は猪苗代城に着陣。
◆◆ 箕輪初心●福島:『二本松城』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201305/article_12.html

8月21日〜母成峠の戦い
3つの台場が攻撃された。
 新選組や大鳥圭介も敗走。天寧寺へ引き上げた。
      会津藩の敗戦・・・・会津戦争が激化。

◆◆ 箕輪初心●福島『会津若松城2回目』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201304/article_23.html



8月22日 戸の口ヶ原→強清水で敗戦。     
    松平容保の実弟で桑名藩主:松平定敬(さだあき)は
      白虎隊を率いて、滝沢本陣から出陣した。

   土方歳三は援軍を求めて庄内藩に向かうが、既に恭順体制
   の庄内城には入城さえ叶わなかった。
   

   土方歳三は会津から仙台へ向かうことを決めた。
   斉藤一は土方歳三に
   「今、落城せんとするのを見て、志を捨て去る、誠義にあらず」
  と、会津とともに徹底抗戦を主張した。

  そして、城下に残る斉藤一と、天寧寺から離脱した隊士達
   新選組は分裂する。

9月4日 新選組隊士が如来堂を守備した。
    新政府軍に新選組隊士20名が全滅した(伝)。
    山口次郎=斎藤一は会津での新選組隊長として
    会津藩が降伏開城した後、隊士とともに斗南藩に移り、
    苦汁をともにしたのち、明治政府での警察官になり、
    大正の世まで生き抜いたのであった。
会津藩士の高木の娘を妻にした。



9月3日 土方歳三は仙台で、榎本武揚の率いる旧幕府海軍と合流。
     奥羽越列藩同盟の軍議に参加した。
「土方歳三を総督にする。」という話もあったが、
     奥羽越列藩同盟が崩壊した。

9月4日 米沢藩が降伏。

9月12日 仙台藩が降伏。
     土方歳三は同盟藩が次々と新政府軍に降伏した後でも、
 
9月15日 大鳥圭介も榎本に交流
 新選組生き残り隊士30数名&桑名藩士らも太江丸に乗船。
旧幕府陸軍&海軍が合流。

10月12日 榎本武揚の大江丸で仙台折浜(現宮城県石巻市折浜)
  を出航し、蝦夷地に向かった。2200余名。



【5】箱館戦争と土方歳三の戦死
10月20日 蝦夷地:鷲の木に上陸。

10月21日 土方歳三は間道軍総督となって、五稜郭へ向かった。
       新選組は大鳥圭介総督の下で本道を進んだ
    箱館・五稜郭を占領。

11月5日 土方歳三は額兵隊などを率いて松前攻略軍総督として
  松前に進軍した。松前城を攻略。
  
11月15日 江差攻撃
  榎本武揚は土方を海から援護するため、軍艦「開陽丸」で江差沖へ
  向かったが、暴風雨に遭い座礁。開陽丸が沈没。

 土方歳三は江差を占領した。
 松前城へ戻った。

12月15日 蝦夷地平定祝賀会
   榎本が各国領事を招待して催した。
  土方歳三が函館五稜郭へに凱旋。
  
 「蝦夷共和国」(五稜郭が本陣)が成立
榎本武揚は総裁
  土方歳三は陸軍奉行並箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取。

明治2年(1869)  
1月〜2月 土方歳三は箱館・五稜郭の整備に精を出した。

3月21日 回天・蟠龍・高雄の三隻は宮城に向かった。
  土方歳三は回天に検分役で乗船した。
  目的は新政府軍の甲鉄艦奪取であった。

  宮古湾海戦・・暴風雨。
  作戦は失敗。多数の死傷者が出た。
  土方歳三は生還した。

4月9日 新政府軍の艦隊がが渡島半島乙部に上陸を開始。
  
4月14日・23日 土方歳三は、二股口の戦いで新政府軍の進撃
  に対し徹底防戦する。土方軍が死守していた二股口は二連勝。
  しかし、もう一方の松前口が破られて退路が絶たれる危険が
  起こったため、やむなく二股口を退却し、五稜郭へ帰還した。


5月11日 新政府軍の箱館総攻撃
弁天台場が新政府軍に包囲され島田魁らが降伏。
 千代ヶ岡陣屋が降伏。
 五稜郭が孤立。
 土方歳三は僅かな兵を率いて出陣。
 箱館一本木関門にて陸軍奉行添役:大野右仲に命じて進軍させ、
 「我この柵にありて、退く者を斬る。」と発した。
 土方歳三は一本木関門で馬上で指揮を執った。
 しかし、銃弾に腹部を貫かれて、生涯を閉じた。
 側近が急いで駆けつけた時にはもう絶命していた(伝)。


5月18日 榎本武揚は降伏。五稜郭開城の約束。



★参考文献
「土方歳三の35年」歴史読本:人物往来社・・・ベース
「戊辰戦争」:星亮一著

「その時歴史が動いた」NHK取材班
「その時歴史が動いた」ビデオ:NHK

「新選組:土方歳三最後の一日」DVD など多数。




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