箕輪初心●岩櫃城探検隊第8弾【中山城2回目】

平成25年(2013)11月10日、戦国真田の岩櫃城跡探検隊
第8弾があった。88名の参加であった。午前の部は全員で
高山村の「中山城」に行った。中山城は、上杉謙信&北条氏
邦&真田幸隆(真田幸村の祖父)の狭間で、生き残りをかけ、
中山一族の城である。山ア会長をはじめ根津さん・富澤豊前
守様・本間さん・小田島さんなど、多くのスタッフの方々に
大変お世話になりました。





箕輪初心●群馬旧高山村の城:中山城1回目&並木城
http://53922401.at.webry.info/201201/article_23.html
■訪問日・・・平成21年(2009)3月15日・・・
○苗場スキーから月夜野の名胡桃城前から赤根峠を越えた。
○旧&旧道は猪俣邦憲が名胡桃城を攻撃した時の榛名山城
 がある。塩原太助もこの峠を通って行った。
●高山村バイパスの信号200m西の比高20m程の丘にある。
 電気屋の前に看板がある。


箕輪初心●群馬【名胡桃城A】=北条氏滅亡のきっかけの城
http://53922401.at.webry.info/201202/article_22.html



【1】中山城(中山新城)・・・高山村中山
■訪問日・・・平成25年(2013)11月10日
○岩櫃城探検隊の本部は「コニファー岩櫃」であった。・・・
5分遅刻してしまいました。ご迷惑をおかけしました。
マイクロバス3台で、東吾妻町から高山村の向かった。
箕輪城語り部の会の吉田さん夫妻もいらっしゃった。

○南に高山温泉センターが見える。

【1】現地案内板

群馬県史 通史編3 
中世は「16世紀に入ると、上野内の築城は第三期を迎え・・中世
築城の最盛期となる・」とし「主な城を挙げると金山城・箕輪城・
長井坂城・中山城・・などである」と記している。そして、その築
城者は、前記した城は総て後北条氏によるとし、特に、中山城と長
井坂城の築城手法は、同じ半折囲郭構造で驚くほど似ている、と指
摘している。その構造は、本丸を北・西・南の三方から囲むような
形で二の丸を設置し、堀切と土居で防禦をつくり、二の丸の西にこ
れを囲むような形に三の丸がつくられて、要害堅固な城郭をなして
いるのがうかがえる。
また、その築城年代については、県教委発行の「群馬県の中世城館
跡」によると、北条氏が上野国の主要部を制した後期、天正11年
(1583)から14年(1586)と推定されると記している。              
    (★現地説明板より)


・富澤朗氏=富澤豊前守様の縄張り図



【2】高山村ボランティアガイド:市村さんの話
・歴史年表をいただいた。



【3】中山城の見学
●川を渡り、川沿いに100m北に行き、南北に長い城である。


●橋を渡ると城になる。


●川の右岸伝いに行き、鋭角に曲がる。
 

●本郭に出る。

本郭・・・土塁は四方にあり、ほぼ正方形である。
東西40m×南北に50m程の平地が広がる。
 周りは土塁が巡らされている。

石の祠もある。

・案内板


○市村さんの解説があった。
「南・西・北に現在は深さ7〜8m程の空堀が巡らされている。」


○本郭と北の馬出から二の郭に向かった


●空堀は草刈りがしてあった。


●二の郭の境の空堀の杉木立の間を登った。


●二の郭・・・藪漕ぎをした。
 

●二の郭&三の郭の間の空堀・・・ミョウガ畑で
堀がだいぶ埋められていた。


▼一端、本郭の西の深い空堀に戻った。
 ★本当に空堀がよく残っている。

○本郭の北斜面


●二の郭の杉林から、南の馬出を見た。


●二の郭の南は蒟蒻畑であった。




●三の郭に入った。蒟蒻畑である。


●大手口の枡形に行った。
 枡形から写真をとったので、枡形構造が見えない。


▼三の郭から、戻った。


●南の馬出


●三の郭の南から、捨郭を見た。
  林の部分が捨郭である。


●三の郭&捨て郭の間の空堀・・・現在は農道を戻った。


●見学の本体と合流した。

 富岡豊前守様と話した。

○バスの中で、小田島さんと話した。



◆◆ 中山城の歴史 ◆◆
・建保2年(1214年) 武蔵児玉党の阿佐美実高が築城。
  @説1・・武蔵児玉党の阿佐美実高が築城。 
      阿佐美実高は中山氏と改姓。(高山村史・市村様)
  A説2・・長尾系中山説もある。
B説3・・斉藤系中山氏説(富澤豊前守様)

・永禄6年(1563) 武田氏の真田幸隆の家臣になる。          

・元亀2年(1571)
【信玄公沼田発向之事】・・・★謙信公の間違いである。
永禄年中沼田万鬼斎父子没落沼田乱れければ、元亀二年(1571)に
信玄公岩櫃の城に御着有て、先陣真田弾正幸隆、清野刑部左衛門を
先手として尻高の城へ掛られ給へば、尻高左馬介は降参して嫡子源
次郎を人質に参らせ御先手に加り中山に討ち入り給いは、中山斎藤
安芸守も取物も取りあえず金の馬鎧を打かけ五十人ばかりの供廻り
にて添はずが森に出向いて降参したりければ、家老平形丹波守父子
を人質に出し御手に加え不動峠に御陣をすえさせ給いければ、名胡
桃城主鈴木主水、小川城主小川可遊斎を始め北能登守参陣したりけ
り。発知図書・山名信濃守も同日に御礼に申したりけり。その頃沼
田は謙信公の持分なり。〜〜〜〜(中略)〜〜〜〜尻高・中山を始
め景虎公{信玄公の誤り}に属したりければ、謙信入道吾妻郡を責
め取るべしとて度々大道峠の辺りまで出馬あるけるが・・・
〜〜〜(後略)〜〜〜〜。」

(★加沢記・・・脇屋真一著「加沢記釈文より転記)


・天正7年(1579)上杉氏と同盟した武田氏の家臣:真田昌幸に命じて、
   後北条氏から、沼田領を奪取するための前線基地として築城。
   真田昌幸は名胡桃城を内応させ沼田城を攻略
   (→内応した鈴木主水が城主)
       (★加沢記・真田太平記など)



箕輪初心●群馬:岩櫃城B岩櫃城跡探検隊に参加
http://53922401.at.webry.info/201011/article_7.html



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
●●● 中山新城時代 ●●●


・天正10年(1582)
   ガイドの根津さんの御先祖が「潜どう院」を築いた。


・真田昌幸 VS 北条方の将:白井長尾氏
  17代中山勘解由が戦死。→中山氏滅亡
(※7中山勘解由、津久田の郷、猫城を攻めて戦死す。)         
  北条氏家臣:赤見山城守が城代。
  (★赤見氏は秋間出身・・・御子孫は小須田一族のお嬢様
   =天皇の嫁さん・・・と知り合いなのだ。
   でも、これ以上はかけない。書いてはいけないのだ。)

3月 武田氏滅亡。


【中山右衛門の事】
「天正十年(1582)六月下旬白井領分津久田郷、ねこ屋敷(旧敷島村
大字寄居・敷島駅の直南:現群馬県前橋市)申所に要害をかまえ、白
井より牧和泉守、樽の城(群馬県勢多郡赤城村→現前橋市)には子息
牧弥六郎まかりあり。父子計略を合わせ沼田を責んとす。
この由沼田へ内通ありければ金子美濃守・恩田越前守・沼田豊前守・
多放知左衛門五郎・中山右衛門尉都合千余騎中山を大将として筑田
(群馬県勢多郡赤城村、津久田城)さして押寄る、要害をおっ取りま
き、時(鬨)を上げたりけり。筑田には元より心得たる事なれば物か
げ林のかげに伏勢起り合て一度にどっとかけ出す。中山先手なれば彼
伏勢としのぎをけづり火花をちらして戦ふたり。
かかる所へ白井より後詰大勢押寄せ、その中に大右衛門と云物大旗
持せ、白井長尾一井斎と名乗り金子のがすな討取れと切てかかる。
 金子美濃守思ひ掛けなく方より出、其いきおいに恐れ一軍も戦わ
ず、すてむち打て逃たりけり。其勢に引立られ恩田越前・沼田発知が
勢も引たりけり。先手の中山は敵大勢に取かこまれなれども大功の者
なれば七八騎なぎ伏せ、残者共四方へはっと追いちらし味方の勢を見
るに一騎も残らず落ち失せけり。かくてはかなわじと思ひけん纔(わ
ずか)の良等(郎等)三四人召つれて南雲沢手に掛り落行ける。運命
やつきたりけん、高絃(蔦蔓のことか)の中へ馬を乗込、殊に終日の
軍にくたびれて馬もつかれはたらかず。あみにかかりし魚の如し。し
かる所へ角田次郎左衛門と名乗同名の者弐人打合ついにここにて討た
れけり。この時沼田勢弐百余人討れける。五六十人は生捕られ白井に
て皆討れけり。〜〜〜〜(後略)〜〜〜〜」
天正十年に中山氏は城主の戦死によりその一族は信州に落ちのびた。
信州高井郡新野村・佐野村・菅村・間山村などには中山氏の一族がい
る。中山氏の宗家は作曲家として名高い中山晋平を輩出した。

(★群馬県史史料集第三巻戦記編T所収『吾妻記』)


・天正14年(1586)・・・北条氏の家臣赤見氏在城し、敗戦。
  真田昌幸配下:林騨左衛門に破れた。

 (★加沢記)


・天正15年(1587)  
真田方の後藤大学守介は戦死。


・天正17年(1589)
沼田城を含む利根沼田の3分の2は後北条氏。
    名胡桃城を含む残り3分の1は真田氏の領地。
        
後北条氏は沼田城の城代に猪俣邦憲を配置。
 
・天正17年(1589)
?月 真田信之が徳川家康養女(本多忠勝娘)の小松姫と結婚。
8月 関白豊臣秀吉の裁定で、
   ・沼田城を含む沼田領の三分の二が北条氏の領土.。
   ・名胡桃城を含む三分の一が真田氏の領土。+伊奈
   →真田信幸は沼田城を北条氏直に渡す。
       名胡桃城は真田氏に残す。
     矢沢頼綱は沼田城から退去

10月 猪俣邦憲は南西の榛名峠城から名胡桃城を奪取(名胡桃事件)。 
北条氏邦の右腕で、沼田城主:猪俣邦憲は、名胡桃城主:
 鈴木主水の配下、中山城主:中山九兵衛を調略し、偽の
 真田昌幸からの手紙で、鈴木主水を城外に誘った。
南西の榛名峠城(=権現山城)から名胡桃城を奪取した。
鈴木主水は沼田の正覚寺で自刃した。(名胡桃事件)
※小田原征伐勃発の口火を切った城である。
 {★名胡桃城の歴史・月夜野町(現みなかみ)教育委員会より}
  

 ●真田昌幸が徳川家康に苦情
    →豊臣秀吉は北条氏政に質問

11月21日 真田昌幸宛の豊臣秀吉からの書状
  「秀吉に上洛しない北条が、一部の部隊とはいえ、
   秀吉の裁断を破って真田領を侵した
   ことは〜〜〜。」と激怒。
12月 北条勢:猪俣邦憲は3方向からの岩櫃城攻撃。
岩櫃城周辺に大戸から攻撃。
    @中山口→横尾八幡城の戦い
    A白井口→中之条古城の戦い
    B大戸口→手古丸城占領→仙人窟陣城で監視
          (群馬県東吾妻町大戸)

★★箕輪初心●【横尾八幡城】
http://53922401.at.webry.info/201202/article_12.html

●名胡桃事件



北条氏邦の沼田城代:猪俣邦憲は、中山城
主:安芸守の2男:中山九郎兵衛に、「貴殿は中山城主であって当
然だ。北条につけば、名胡桃城&小川城は貴殿のものになる。」と
言葉巧みにそそのかした。中山九郎兵衛は姉婿の名胡桃城代:鈴木
主水(重則)に「伊那郡(もう一つの豊臣秀吉の分与地)の城取り
の相談あるから、上田に来るよう。」と偽りの真田昌幸の書状を出し、
鈴木主水を城外におびき出した。鈴木主水が異変に気づいて名胡桃
城に戻ったときには、中山九郎兵衛が名胡桃城を乗っ取ってしまっ
た後だった。鈴木主水は妻子を沼田城に取られたので、北条の味方
になるふりをしたが、鈴木主水は真田昌幸から預かった名胡桃城を
乗っ取られた責任からか、腹を掻っ切って果てるしかなかった。沼
田の正覚寺で自刃したという。この年に結婚した真田信之の妻:小
松姫(徳川家康養女)の墓のある場所である。話が出来すぎの感が
あるが、とにかく、猪俣邦憲は簡単に名胡桃城を手に入れた。きっ
と北条氏邦が「でかした。」と褒めたであろう。その後、北条氏邦は
真田昌幸の岩櫃城に総攻撃をかけようと、中山口・白井口・大戸口
から岩櫃城に向かった。中山口は猪俣邦憲が大将で、中山・尻高・
富永が攻撃開始をし、中之条の横尾八幡城で戦った。白井口は北条
氏邦の本隊軍で、中之条古城で戦った。大戸口からは上田を大将に
手古丸城を落とし、大戸の仙人窟陣城から様子を伺っていた。★も
しかしたら、箕輪城代:多米周防守や倉賀野城代:塀和伯耆守も応
援していたかもしれない。・・・・しかし、真田昌幸から、これを
聞いた豊臣秀吉は烈火のごとく怒り、北条氏政&氏直に宣戦布告状
を叩き付けた。・・・北条一族は、岩櫃城攻撃を断念した。猪俣邦
憲は名胡桃城の乗っ取り作戦の成功が原因で北条氏を滅亡に追い込
むなんて思ってもいなかったのである。
   (★上毛古戦記の要約等)

→豊臣秀吉の小田原征伐の口実・豊臣秀吉は北条氏追討の指令。
  猪俣邦憲が兵を撤退させた。 
   

・天正18年(1590 )豊臣秀吉の小田原攻め→の北条氏滅亡。
            中山城廃城。

     白井城主:本多豊後守の領土となった。  




★明日は、唐沢玄蕃の墓&割田下総守の墓かな?

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