箕輪初心:生方▲高崎経済大学:西沢教授「鈴木重成は偉人なの?」俗説と史実

鈴木重成公は天草では「過酷な重税にあえぐ民衆の窮状を打破す
るために一命を賭けて幕府に直訴し、石高半減の建白書を残して、
農民のために切腹した。石高半減の減税を実現せしめた天草四郎
と並ぶ救世主である。」とされている。
高崎経済大学:西沢教授が
天草で取材した内容を紹介してくれた。高崎経済大学:西沢教授
の考えは、@自刃を信じ込まされている。あるいは、史実「病死」
を利用して、自刃したが届けは病死という考えに切り替えられた。
@42000石→21000石と石高半減は鈴木重辰の時の総検地の時で
あるので、嘘の記述である。さらに年貢の税率は同じか増額
した可能性もあるので、年貢は半減にならないのである。
つまり、年貢率を高めて7公3民にすれば、税率は変わらない。
私の感想としては、@1級資料・2次資料もないのに天草の郷土史
家が勝手に歴史をうまく組み立てたと思う。「真田丸」に出てくる
真田昌幸は、逃散した農民が戻ってくる条件として、上田城賦役
&年貢なしで対応した。しかし、山崎・鈴木は富岡城の賦役&
石高の総検地のまで間は決められた1万5千石年貢を納める
ため、農民に重税をかしたことは確かであろう。昭和以降
の誇張された偉人伝説、ねつ造された英雄伝説がちょっと見
えるような気がする。雜賀衆の鈴木重成は歴史のミステリーだ?




●天草の俗説〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「天草・島原の乱の後、天領となった天草初代代官に任じられた鈴木
 重成公は、荒廃した天草の復興に尽力した。天草の人々を苦しめて
 きた重税を減らすため、石高半減を幕府に嘆願して、切腹して果て
 た。天草四郎と並ぶ救世主である。」


【1】俗説が生まれた背景
・昭和3年(1927) 鈴木神社の昇格運動
   郷社から県社に・・・。
   鈴木重成公の自刃説が生まれた。
※西沢教授「皇国史観と英雄史観と物語史観による」
   祭神は鈴木三公(正三、重成、重辰)
    鈴木重成公を御神体として神格化・・・
   天草の人々は鈴木重成の遺徳を偲び、霊は神社に
   祀られたという。


【2】間違った郷土研究による歴史観
「英雄伝説→偉人伝説・・商業的効果・皇国史観など」
0)支え
一般書籍・教育委員会・ロータリークラブ・地域活性化センター
 町作り実行委員会・観光情報

1)教育現場・・・教育委員会
 ・小学校の歴史教育で偶像化・・・
・小学校の学芸会等で劇化・・・・
・教育マンガ

2)
・平成7年(1995) 鈴木重成は
「鈴木重成は年貢半減願いで切腹。幕府に病死と届けられた。」
という説にすり替えられた。


・平成15年(2003) 天草信用金庫に銅像を建立。
  市長は観光目的の没後350年祭を記念して銅像を
建立しようとした。本渡市(現天草市)の住民監査請求
により、市長の背任・詐欺で地検に告発された。
集めた寄付金で私有地に建立せざるを得なかった。


・平成17年(2005) 富岡城の銅像建立。
日本宝くじ教会の普及宣伝事業
「富岡城跡モニュメント本体検討委員会」摂理地
11名の委員
 @入り口・・・・鈴木重成

 A二の丸・・・・鈴木重成&鈴木正三
勝海舟&頼山陽

・平成18年(2006) :郷土史家の鶴田文史が自刃説の真偽を
   『天草 鈴木代官の歴史検証 切腹と石半減その真実』の中で、
  @自刃説&A石高半減説を否定した。
 
  ・昭和3年(1927) 突然出現した説である。
    鈴木神社昇格運動によって、・・・
 ・昭和4年(1928) 郷土新聞『みくに』「天草郷土史談」元田
  重雄著
「重成は死をもって石高半減を申請し、その旨を遺書して自刃せり」
 と書いた。しかし、それ以前には全く史料はない。
  ※多くの文献や史料を基に、自刃説は根拠がない。

『熊本県大百科事典』:花岡興輝著にも自刃説はない。
  ・平成15年(2003) 『鈴木代官史料集』:寺沢光世著にも自刃を
   裏づける史料はない、・・・
   と、鈴木重成の死は自刃でなく病死であると主張した。
 
 A年貢半減や減税の史料もない。
  鈴木重辰の時期に、死亡から6年後、42000石が21000石
  に半減した。
 (★西沢教授・ウィキペディア)
  西沢教授「半減したとしても、税率を引き上げれば、
  年貢は同じである。」


・平成19年(2007) 「富岡城物語」
苓北町教育委員会作成
C鈴木重成「石高半減」の考え・・・p34
 「鈴木重成は再三、上申しましたが、容認されず、抗議の意味で
 切腹したと伝えられます。・・・」
★「再三」とか「伝えられています。」は曖昧な表現である。
  教育委員会レベルで公的な場所に建てたなら、「・・・という説
 があります。」の方がよいのではなかろうか?


C鈴木重成「石高半減」の考え・・・p92
天草全体で1万5千石の年貢を納めなければならなかった。
鈴木重成は一揆の原因がここにあることを察知していた。
従って、4万2千石の石高に見合った年貢を減らす必要が
あると考えた。
再度、検地をし、石高は半分である。とわかり、老中に
実情を申し述べた。

論理のすり替えが行われている。★信憑性に乏しい。
  幕府や鈴木文書の出典がなく、こじ付けの感じがする。

・平成28年(2016)?
『天草を救った鈴木重成公 ふるさと寺子屋Hpより
熊本県観光サイト なごみ紀行 くまもと』

●鈴木神社宮司の田口孝雄氏の「鈴木重成公」の話
  天草・島原の乱はなぜ起きたか
天草の実際の石高(米の生産高)は2万1千石ほどしかないのに、
寺沢検地によって石高を4万2千石としてしまった。当時の税率
は石高に応じて、4割から6割も課税されるため、天草の農民は
収穫のほとんどを徴収されるという状況になり、農民の困窮ぶり
は大変なものであった。
 天草・島原の乱の原因はキリシタン弾圧よりも苛酷な年貢が大
きい。天草・島原の乱では3万7千人が死亡し、このうち天草で
は人口が2万人から約八千人に激減したと推定されます。神社や
寺は焼かれ、田畑は荒れ果て、焦土となった天草の島々・・・。
 この天草を復興し、二度と大乱の起きないようにするため、幕府
から任命された初代代官が鈴木重成公であった。

 『石高半減の建白書を残して、農民のために切腹』

重成公は三河藩(愛知県)東加茂郡の足助城城主鈴木重次の3男
として誕生。長兄のしょうさん正三公は後に出家して禅僧となっ
たため、家督は重成公が継ぎました。重成公は上方代官を歴任し
た後、天草・島原の乱には鉄砲隊長として参戦。老中松平信綱の
信任が篤く、乱後も天草の実態調査を命じられた。

天領となった天草の初代代官として重成公が天草に入られたの
は、寛永18年(1641)のこと。富岡城下に陣屋(役宅)を置いて、
天草の民政に取り組まれた。軍事面は細川藩が担当し、富岡城に
も細川藩の藩兵が詰めていた。

重成公は天草全島を10組88の村に区画し、組に大庄屋、村
に庄屋を置いて行政の浸透をはかり、外国船の動静を探る遠見番
なども設置し、行政機構を整えていかれた。
 重成公の考えは、キリスト教に救いを求めて破れた人々の心の
すさみを癒すために、兄の正三公の意見を入れて日本人の原点へ帰
ろうということであった。そのため、幕府から3百石を持ってきて、
各地に神社や寺を次々に建立していかれたの。朝には、鎮守の森か
ら太鼓の音が響き、夕べにはお寺の梵鐘が聞こえる。日本の原風景
に戻るに従って、ようやく島の人々も落ち着きを取り戻した。

しかし、天草の公式の石高が4万2千石のままでは、重税の圧迫
はどうしようもない。重成公は詳細な検地を行い、天草の石高半減
を強く老中の松平信綱に訴えた。幕府にも威信があるから、簡単に
承諾する訳にはいかない。承応2年(1653)、重成公は真情を綴った
建白書を残し、江戸の自邸において切腹して果てられたのである。
日本で初めて、農民のために命を捨てる武士が現れたのであった。

 『遺徳を偲び鈴木神社を建立』

 切腹した場合、お家断絶になるのが通例ですが、幕府では病死扱い
にして子の重祐に家督を継がせ、養子の重辰(しげとき)(正三の実
子)を2代目代官に任じるという異例の処置を取った。天草の人々は
代官に心服している。鈴木家でなければ、もはや天草は治まらないこ
とを幕府は熟知していたのであった。

重辰公は石高半減の訴えを繰り返し行い、ついに重成公の七回忌に
松平信綱と阿部忠秋の連名で石高半減の通知が下されたのであった。

天草の東向寺領の一角には重成公の遺髪が埋められ、遺髪塚が築
かれた。鈴木塚はその後、天草三十余ヶ所に分祠され、今も「鈴木さ
ま」として信仰されている。

根本となった遺髪塚(本渡市本町)には重成公祀る鈴木神社が建立
され、後に兄正三公、養子重辰公も祀られた。重成公の切腹説
には疑問を呈する向きもあるが、切腹という非業の死を遂げられた
からこそ、島民はその魂を鎮め感謝法恩の念を表わすために神とし
て祀ったにちがいない。

中国には「最初に井戸を掘った人のことを思え」という名言がある。
天草にしてみれば、その人が重成代官であり、現代の人々もその井戸
の水の恩恵を受けているのである。


★「建白書」が出されたというが、徳川の日記、鈴木家にも
 文書を見た人はいないようである。1次史料・2次史料を
 あげて説明している方がいらっしゃらないようである。
 根拠のない俗説かもしれない。




●史実編@鈴木家〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
鈴木重朝→鈴木重次→3男:鈴木重成
1)養子:徳川頼房の11男:鈴木重義
2)鈴木重次の長男:鈴木正三
 ・天正7年(1579)1月10日
 三河国加茂郡足助庄(愛知県豊田市旧足助町)の則定城主:
  鈴木重次の長男として生まれた。
  鈴木正三は鈴木家を継がず、弟:鈴木重成が継承した。
42歳で遁世し出家した。曹洞宗の僧侶となった。
  仮名草子を書いた作家でもあった。
  島原の乱後に天草の代官となった弟:重成の要請で天草へ布教し、
  曹洞宗に限らず諸寺院を復興し、『破切支丹』を執筆して切支丹
  (カトリック・キリスト教)の教義を理論的に批判した。
実子:鈴木重辰を切腹した弟:鈴木重成の養子とし、後見した。
3)次男:鈴木??
4)3男:鈴木重成
・天正16年(1588) 鈴木重次の3男:鈴木重成が生まれた。
・徳川家康・秀忠に仕えた。
・慶長24年(1614) 大坂の役に従軍した。
・元和6年(1620) 父:鈴木重次に家督を譲られ、
           700石を知行した。


●史実編A天草の歴史〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・弘治3年(1558) キリシタンの布教が始まった。
・永禄9年(1566) 鹿児島〜島原半島を経由して長崎からキリスト
  教が伝わってきた。
  コレジヨ:天草学林が開設され、日本で最初のオルガンが使用
  されたという。
  天草は、キリスト教文化が浸透した日本の先進地であった。
天草には5人衆がいた。
 大矢野の大矢野氏、
  有明の上津浦氏、
  栖本の栖本氏、
  苓北の志岐氏、
  河浦・本渡の天草氏である。
  
  九州は豊後の大友、薩摩の島津、肥後の竜造寺
  の3大名が割拠をしていた。

・天正15年(1587) 豊臣秀吉の九州出兵
   豊臣秀吉は弟:羽柴秀長と軍監黒田孝高を伴い20万の大軍
   を率いて九州に本格的に侵攻した・
   島津義久を降伏させた。
   やがて、豊臣秀吉が、九州を制覇した。
   肥後(熊本)の北半分を加藤清正を配した。
   肥後(熊本)の南半分を小西行長を配した。
  天草5人衆は、豊臣秀吉に服属し、本領を安堵されていたが、
  小西行長の与力という立場におかれた。

 *徳川家康と真田昌幸・小笠原貞慶・木曾義昌の関係と
同じであった。「真田丸」状態であった。
豊臣秀吉はイエズス会準管区長:ガスパール・コエリョを呼び、
  博多においてバテレン追放令を発布した。
  しかし、事実上キリシタンは黙認されていた。

・天正17年(1589) 天草の合戦
 小西行長は宇土城の普請夫役を5人衆に命じた。
  ところが志岐麟泉は拒否し、他の4氏も同調した。
  小西行長の与力の立場で、同格と見ていたのが拒否の原因で
  あったためである。

  つまり、戦には参軍するが、私城の修復にまで手伝う必要は
  ないという考えである。

  天草氏、大矢野氏、志岐氏、上津浦氏、栖本氏、志岐氏:
  天草5人衆が宇土城主小西行長の宇土城普請手伝いの下知に
  逆らった。
小西行長は怒って、豊臣秀吉に訴えた。
豊臣秀吉の逆鱗にふれた。
豊臣秀吉は「直ちに討伐せよ。」と命じた。
 小西行長に兵3千を授けた。
   志岐城を攻撃したが、全軍壊滅の大敗を喫した。
小西行長、隣国の加藤清正らに援軍を求めた・

天草5人衆 VS  小西行長・加藤清正、大村氏他の連合軍

・慶長元年(1588) 小西行長は国衆一揆を鎮圧
  小西行長は天草・宇土・八代・益城を豊臣秀吉から拝領した。
  天草を支配していた天草五人衆:志岐、天草、上津浦、栖本、
  大矢野は小西行長の影響で、キリスト教の洗礼を受けた。
小西行長は神社や寺院は破壊した。
小西行長の熱心な推奨と庇護により、爆発的に信者が増加した。
 
・慶長3年(1600) 
8月後半  加藤清正は黒田如水軍とともに出陣した。
    小西行長の宇土城、立花宗茂の柳川城などを開城、
   調略し、九州の西軍勢力を次々と破った。▲関ヶ原の戦い
9月15日 小西行長は西軍について敗戦した。
10月1日 小西行長は京都市中引き回しの後、六条河原において
     石田三成・安国寺恵瓊と共に斬首された。

  戦後の論功行賞で、小西旧領の肥後南半分を与えられ52万石
  の大名となった。しかし、加藤清正は天草領の支配を嫌って、
  領地換えを依頼した。
徳川家康から、天草全島と豊後3郡を交換した。
有事に大坂に馳せ参じるたkという名目であった。
(★富岡城物語)
  加藤清正は天草だけでなく肥後国全体の神社を数多く復興・支援
  した。

◆・関ヶ原の戦いで東軍に味方した
寺沢広高・堅高は天草4万石を加増された。
  唐津城を築城し、天草の飛び地を含めると12万3千石を領
  する大名となった。
  天草領を治めるために富岡城を築き、城代・代官を派遣して
  統治した。
  唐津や天草5人衆などの土着豪族を弾圧した。
  天草は、唐津藩主の寺沢広高・堅高2代にわたって過酷な
  収奪が行われた。

・慶長24年(1614) 禁教令
   寺沢広高・堅高はキリシタンの弾圧に厳しく棄教を迫るよう
  になり、拷問した。

・寛永14年(1637)12月〜15年(1638)2月 天草・島原の一揆
  天草四郎を盟主とした島原・天草の乱が勃発した。

  追討使:松平信綱に従って鈴木重成も島原に入った。
島原・天草には12万人が侵攻した。
3月1日 雜賀孫一=鈴木重成は鉄砲隊長として参戦した。
  鈴木重成は原城攻撃に参加し、一番乗りの武功を顕彰された。
原城に立て籠もり亡くなった人数は女子供を含め2万8千人に
  も及ぶという(伝)。

  天草・島原の乱では3万7千人が死亡した。
★オーバーだっていう説もある。
  天草では2万人から約8千人に激減したと推定されている。
 天草島民の半分以上:約60%が戦死したのだ。
 
 3月2日 乱後、老中松平信綱の信任が篤く、鈴木重成・重辰は
  島原に残って残務整理をした。

4月13日
島原は高力忠房、天草は山崎家治が入封した。
山崎家治は「富岡城」の修築に取りかかった。

・寛永16年(1639) 10月 鈴木重成は島原滞在中に天草の実態調査
  を命じられた。亡所開発を命じられた。
天草から島原に1万3千人が行っていたので、天草は
無人状態であった。
 (★富岡城物語)


・寛永18年(1641)
 9月10日 山崎家治は「富岡城」の修築を完成させると、
  丸亀に移封になった。
  鈴木重成は天領:天草の代官に任じられた。
  天草・島原の一揆?乱による荒廃で疲弊を極めていた。
 鈴木重成は立て直しを図った。
 1)天草への植民促進
  逃散していなくなった天草へほかの地域からの植民を促進した。
2)海防促進。
遠見番所3ヶ所を設立した。

 2)キリシタン弾圧
   人別帳を整理して踏み絵を執行する。
   兄:鈴木正三を呼び寄せて説法を行わせ仏教への改宗を勧めた
   り、『破切支丹』を刊行したりした。

・寛永19年(1642) 西国諸藩に移民を割り当てた。
熊本藩からは170人が移民した。


・正保元年(1644) 鈴木重成が向陽山明徳寺を建立した。
  開山は山口の瑠璃光寺の禅師:中華珪法(けいほう)であった。

・正保4年(1648) 熊本藩からは500人が移民した。
更に移民は50年続いた。


・承応2年(1653)10月15日(12月4日)江戸の自邸で死去。
   享年66。

・承応3年(1654) 養子:鈴木重辰は天草代官になった。
中華珪法(けいほう)が江戸から天草に帰る際に鈴木重成の
  遺髪をもらい受け、本村(現 天草市本町)の丘に埋めて供養
  した。
  鈴木神社の元となった。


・万治2年(1659) 総検地
  寺沢氏の算出した石高42000石を疑問視して再検地を実行
  した。42000石から21000石となった。

・天明7年(1787) 本村の鈴木神社に正三、重辰が合祀されて鈴木
三神となった。

・文政6年(1823) 鈴木明神という名称になった。




★真偽は不明であるが、明日も不思議な岡登用水かな?

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