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“知”と“情念”―「寄宿舎 悲しみの天使 Les Amities Particulieres」

雑誌などで、例えば“同性愛をテーマにした映画特集”という企画が立てられると、同性愛映画の古典として真っ先に紹介されるのがこの作品だろう。
漫画家萩尾望都氏の名作「トーマの心臓」に直接的インプレッションを与え、その作品世界の創造の源になった映画としても有名だ。この作品を観た後で「トーマの心臓」を読むと、今作の主人公の1人であるアレクサンドル少年の魂の在り様と、映画が描きたかったであろう“愛のカタチ”がより鮮明になるような気がする。

“君に教えよう。僕らの“友情”を人は“愛”と呼ぶのだよ。…”

「悲しみの天使Les amitiés particulières」(1964年製作)
監督:Jean Delannoy
製作:Christine Gouze-Rénal
脚色:Jean Aurenche
台詞:Pierre Bost
原作:Roger Peyrefitte
撮影:Christian Matras
音楽:Jean Prodromidès
出演:Francis Lacombrade(Georges de Sarre)
Didier Haudepin(Alexandre Motier)
François Leccia(Lucien Rouvière)
Dominique Maurin(Marc de Blajean)
Louis Seigner(Le père Lauzon)
Michel Bouquet(Le père de Trennes)
Lucien Nat(Le père supérieur)
Gérard Chambre(André Ferron)
フランシス・ラコンブラード(ジョルジュ・ド・サーレ)
ディディエ・オードパン(アレクサンドル・モチエ)
フランソワ・ルスィア(ルシアン)
ルイ・セニエ(ローゾン神父)
ミシェル・ブーケ(トレンヌ神父)
ルシアン・ナット(校長)
ジェラール・シャンブル(アンドレ・フェロン)―クレジットなし

フランスの良家の子息ばかりが通うという名門神学校に、ある日サーレ侯爵家の1人息子ジョルジュが編入した。この神学校は厳格な規律で縛られており、子供達は完全に親元を離れ、寄宿舎で共同生活を営む。子供達への教育、並びに生活全般の監視を行うのは、校長をはじめとする神父たちであった。
ジョルジュは、編入した最初の日に声をかけてきた人懐こいルシアンと友達になった。ルシアンには“特別な友達”であるアンドレ・フェロンという少年がいたが、成績優秀で世間知らず、しかも生真面目なジョルジュには、彼らの関係は理解しがたいものであった。授業中に、ルシアンに宛てられたアンドレからの愛の手紙を偶然見つけてしまったジョルジュは妙な胸騒ぎを覚え、寮長のトレンヌ神父に相談する。神父の助言に沿い、ジョルジュはその手紙を持って校長室へ赴く。聖タルシシウス像が見守る中、ジョルジュは手紙を校長宛の手紙の束の中に押し込み、逃げるようにその場を去る。翌日、ルシアンの特別な友達アンドレは退学処分を受け、学校を去っていった。嘆き悲しむルシアンの姿に罪悪感を覚えるジョルジュは、それでも自分は正しいことをしたのだと信じていた。“彼”に会うまでは。

ある日、学校の教会で行われたミサに、子羊を抱いた美しい少年アレクサンドルが現れた。13歳という年齢にしては幼く見える少年で、羊を優しく慰撫する姿は天使そのもの。ジョルジュは、雷に打たれたように目を見開いてアレクサンドルを見つめ、そのまま視線が離せなくなる。ルシアンに注意を促されなければ、神父たちの監視の目に留まっていただろう。そう、この神学校では、親元から離れて生活する子供達が、同じ性を持つ子供達と必要以上の関係に陥らないよう、特に厳しく監視されていたのだ。ルシアンの“特別な友達”が即刻退学させられたのも、そのためである。ゆえに神父たちは、生徒達の一挙手一投足に目を光らせていた。
待ちに待った休暇が始まった。子供達は列車に乗って懐かしい我が家へ帰っていく。なんとかアレクサンドルに近づきたいジョルジュは、アレクサンドルが乗っている下級生用の車両にさりげなく佇む。程なくして、車内でゲームに興じていたアレクサンドルが通路に飛び出してきた。わんぱくな少年らしく、窓から身を乗り出さんばかりにして外の景色に見入るうち、目の中にゴミが入ってしまった。ジョルジュはすかさず手を貸し、初めてアレクサンドルと言葉を交わし、力を込めて握手した。
根が真面目で直情的なだけに、ジョルジュはあっという間にアレクサンドルに夢中になる。学年の違う彼らは、日中は会うこともままならない。ジョルジュは朝の礼拝の時間を狙って、無理矢理アレクサンドルの隣の位置に陣取るなどして、いとしい相手に微笑みかけた。ジョルジュの大胆な行動に、“年上の人”の自分への好意に気付いたアレクサンドルも、恥ずかしさと押さえがたい好奇心を覚える。勉学は達者だが、気の利いた文章を書くのが苦手なジョルジュ。なんとかアレクサンドルの心を捉えようと、著名な愛の詩から借用したフレーズを手紙にしたため、学校内で偶然を装い密かにアレクサンドルに手渡した。人気のない壊れた温室で待っていたジョルジュの元に、アレクサンドルが息を切らせて飛び込んでくる。アレクサンドルは、ジョルジュからの手紙の返事を書いていた。照れながらも精一杯の愛情を込めて朗読する。
“素晴らしい詩をありがとう。来年も一緒だとうれしいです。…あなたが好きです(Je vous aime.)”と。
ジョルジュもつられて胸を高鳴らせながら、目上の人や親しくない他人に対して使われる“あなた(vous)”という単語を、もっと親密な関係を表わす“君 (tu)”に直す。そう、彼ら2人の関係は、もはや“上級生と下級生”ではなく、もっと親しい友人同士になったのである。アレクサンドルは目を輝かせながら、手紙を書き直した。
“僕は君が好きです(Je t'aime.)”
授業の合間に、あるいはミサの時間のわずかな隙に、2人は思いの丈を綴った手紙を交わし、視線を交錯させ、友情を深めていく。手を握ることすらない、純粋に精神的なつながり。2人はある日、生徒達の間で密かに流行っていた愛の儀式を温室の中で行う。互いの肌に傷をつけ、流れ出る相手の血を舐めとるというもの。確かにこれは、厳格な規律の上に成り立っているキリスト教的モラルとは相容れないものだろう。この頃になると、既にアレクサンドルの方がこの恋に夢中になっており、次第に年嵩のジョルジュより大胆な行動をとるようになる。アレクサンドルはジョルジュとの関係を“友情”より上の段階であると信じ、ジョルジュはあくまでも純粋で深い友情で結ばれていると捉えていた。ジョルジュの方は、温室内で2人きりになれる時間を大切に守ろうとするが、アレクサンドルはもはや人目を偲んで逢引するだけでは我慢ならなくなっていたのだ。ある日、温室内で“血の契り”の傷跡を見せ合う2人。年上のジョルジュのそれは既に皮膚から消えてしまっていたが、片や幼いアレクサンドルの方の傷跡はいまだ残されたまま。アレクサンドルは、それを愛情の深さの差だと言い張るのだった。


しかし逢引が頻繁になると、寮長のトレンヌ神父はジョルジュに疑いの目を向けるようになる。自分の感情を抑えておけないアレクサンドルの様子から事情を察したトレンヌ神父は、ある晩のこと、ジョルジュとその友人ルシアンの2人を自室に招き入れる。そこで、神父は彼らを大人として扱い、酒やタバコを振舞って、一時の酔狂で人生を台無しにせぬようにやんわりと圧力をかけてきた。ルシアンはともかく、アレクサンドルとの秘密の関係を、よりによって神父に悟られてしまったジョルジュは蒼白となる。自分は権威もモラルも規律も恐くはないと突っぱねるのが精一杯であった。それからというもの、トレンヌ神父は執拗にジョルジュの行動に監視の目を向けるようになる。授業中でも授業以外の時間でもジョルジュに付きまとい、彼がアレクサンドルと接触するのを邪魔だてした。また、抜き打ちで彼の財布の中身を検め、アレクサンドルへの秘密の手紙などが入っていないかもチェックした。危機感を覚えたジョルジュは、アレクサンドルとの仲を校長に告げ口される前に、トレンヌ神父の夜の行動―問題を抱えた生徒達を自室に引き入れ、校内では禁じられた酒やタバコを振舞うこと―を、匿名で校長に知らせた。不審に思った校長によって、まさしくその現場を見られてしまったトレンヌ神父は、翌日神学校から追放された。誰に嵌められたかの察しはついているトレンヌ神父は、ジョルジュにそれとなく警告する。“社会が定めた規律を、どんな形であれ超越することは誰にもできないのだ”と。
ひとまずトレンヌ神父を追い払うことに成功した2人は、それからしばらくの間、蜜月を楽しむ。ある日ジョルジュは校内の小屋の中でアレクサンドルと逢い、タバコを勧める。アレクサンドルはジョルジュが口をつけた部分に触れ、おっかなびっくり煙を吸い込んでみる。大人に一歩近づいた気分のアレクサンドルは、ジョルジュとの間の空気が今まで以上に濃密に変わったことを敏感に察する。2人がお互いに触れ合おうとしたまさにその瞬間、下級生のクラスを担当するローゾン神父が小屋の中に踏み込んだ。彼は、自分の生徒であるアレクサンドルを探しに来たのだ。想定外の光景を目の当たりにした神父は怒り、アレクサンドルを自室に下がらせ、うろたえるジョルジュの弁明にも耳を貸そうとはしなかった。
上級生と下級生の間で不適切な関係が持たれた場合、やはり年嵩の者が責任を負うべきだと考えるローゾン神父は、ジョルジュに厳しく宣告した。名門の家柄の出身であろうとも容赦なく、いずれ退学処分にすると。もちろん、正式な処分が決定するまで、アレクサンドルとは一切の関わりを持ってはならない。意気消沈するジョルジュは、悩みに悩んだ末、神父に自らの罪を懺悔することにした。同性との間に、越えてはならない一線を越えた感情を持ってしまった罪、本来なら教え導くべき年下の者をかどわかした罪…。名家の跡取り息子として家名を継ぐプレッシャーもあったが、それ以上に、ジョルジュはアレクサンドルをスキャンダルから守りたかったのだ。
一方、ローゾン神父は、まだ幼く頑ななアレクサンドルにも、ジョルジュとの関係を諦めるように懇々と諭したが、全くの逆効果であった。アレクサンドルは、ジョルジュへの自分の感情が友情を超えたものであることをはっきり自覚した上で、2人の関係に部外者がとやかく口出しする権利はないと突っぱねた。頑是無い子供の強情っぷりに、神父はほとほと頭を悩ませる。


監視の目が厳しくなり、逢うこともままならなくなったジョルジュとアレクサンドル。ある日ジョルジュは、苦手とするピアノのレッスンをうけていた。すると、アレクサンドルがひょっこりとレッスン室に顔を出したのだ。彼はそのままジョルジュの傍らに立ち、その髪の毛を愛しげに撫でる。驚いたジョルジュは動揺し、たどたどしいバッハの旋律がついには完全に止まってしまう。ピアノの講師を務める神父は盲目であったが、室内に他の人間の気配を感じ取る。ジョルジュは慌てて否定し、もう少し自主練習を続けるからと神父を伴って室外に出た。アレクサンドルの大胆不敵な行動を咎めたジョルジュであったが、2人で弾くバッハの旋律は素晴らしく溶け合っていく。勉強が不得手なアレクサンドルは音楽が大好きだった。「要はリズムだよ」アレクサンドルが、左手でジョルジュの右手をリードする。音楽に理屈は必要ない。今この瞬間を自分の気持に正直に生きるアレクサンドルと、様々なしがらみに悩まされるジョルジュは、ほんのひととき軽やかに心を通い合わせたのだった。室内から流れてくるピアノの調べは、先ほどのジョルジュの下手くそなものとは比較にならぬほど素晴らしかった。盲目の神父は首を捻る。
ローゾン神父は、学校でも1、2位を争う優等生で、守るべきものが多い立場のジョルジュに交渉の矛先を変える戦法に出た。神父はジョルジュに近づき、退学処分を帳消しにする代わりに、アレクサンドルとの友情の証である手紙を全て神父に渡し、その友情に終止符を打つよう迫ったのだ。そうすれば、最優秀の成績を収めていたジョルジュは、無事卒業証書を受け取って自宅に戻ることができる。ジョルジュは動揺する。大人を出し抜く知恵に秀でているといっても、所詮は子供。海千山千の老獪な神父たちには歯が立たないのだ。ジョルジュは悩んだ末、表向き神父たちに従った振りを装うことにする。とりあえず、アレクサンドルからの手紙は全て神父に渡すけれども、真実は違うのだという内容の手紙をしたため、アレクサンドルの部屋にこっそりと置いて。
卒業証書を受け取る儀式が行われている。ジョルジュとローゾン神父が取引したことなど何も知らないアレクサンドルは、最優秀の成績をとったジョルジュに力いっぱい大きな拍手を送る。ジョルジュは、アレクサンドルが自分の真意を込めた手紙を読んでくれることを祈りつつ、後ろ髪を引かれる思いで両親とともに学校を去っていった。ローゾン神父は、帰省する前に部屋に戻ってきたアレクサンドルに、ジョルジュとの友情は終わったのだと諭した。頑固にそれを認めないアレクサンドルだったが、ジョルジュから返されたという手紙の束を見て、初めて動揺を見せる。自分がアレクサンドルに渡したはずの手紙を、なぜ神父が持っているのか。ジョルジュは本当に“間違った友情”を悔い、アレクサンドルとは距離を置くつもりなのか。泣き出しそうになりながらも、アレクサンドルは、ジョルジュからもらった手紙を最後まで渡そうとはしなかった。「他の人はしたいようにすればいい。でも僕はお断りだ!」
まだ幼いアレクサンドルには、後でいくらでも言って聞かせるチャンスはあると判断した神父は、あえて少年に無理強いはしなかった。アレクサンドルは、ジョルジュからの弁明の手紙を見もせずに、そのまま外に駆け出していく。

自宅に帰る列車の通路の中で、空ろな表情の少年が外を眺めている。彼は手紙の束を細かく破ると、それを通路の窓から投げた。紙くずは風に乗り、まるで吹雪のように宙に舞っていく。それをしばらく見つめていた少年は、通路のドアをゆっくりと開き、そこから自らも身を躍らせたのだった。

沈痛な面持ちでサーレ邸にやってきたローゾン神父は、今やアレクサンドルの唯一の形見となった彼の写真を携えていた。ジョルジュは神父の顔を見ると、最悪の結末を察して泣き崩れる。神は、地上のありとあらゆる生き物に等しく愛を分け与える。しかし、そんな神に祝福されていたはずの子供を、自ら人生に終止符を打たねばならぬほどに追い詰めたのも、他ならぬ神の御業だった。神父という立場の矛盾を充分かみ締めつつ、ローゾン神父はアレクサンドルへの愛情に慟哭するジョルジュにかけてやる言葉も見つけられないでいた。神父とて、アレクサンドルを可愛がっていたことに違いはないのだから。
アレクサンドルの葬儀が行われた。ジョルジュも、嘆き悲しむ遺族を遠くに見つつ、1人で嗚咽を堪えていた。そして、アレクサンドルの棺に向かい、溢れんばかりの想いを心の中から語りかける。

学校で禁じるなら、残りの人生を友として過ごそう
すでに1冊の本を書けるほどの思い出を持った
僕らの友情は、君から僕へと手渡された
今度は僕がそれを守る
君に教えておこう
僕らの“友情”を人は“愛”と呼ぶのだよ…

寄宿舎 〜悲しみの天使〜 [DVD]
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初めて今作を観たのが大学生のとき。まだ若かった私は、寄宿舎という俗世から隔離された特殊な空間に閉じ込められてしまった少年たちが不憫でならなかった。いくら、彼らが将来を約束された良家の子息たちで、身分相応の教育とエレガンスを身に着けているとはいえ、まだまだ自由闊達に外で飛び回っていたいだろう年代の子供たちだ。おまけに、狭い空間の中で厳しい規律にがんじがらめに縛り付けられた生活では、そのメンタルのどこかに歪みが生じてしまっても不思議はない。映画に登場する少年たちは、10代前半から中ごろまでの、言ってみれば情緒不安定な時期の子供たちばかりなのだから。
自らの中に確かな自我が芽生え、それを自覚すると、それを理由もなく弾圧するものに対し、この年代の子供たちは耐えることを知らない。生まれたばかりのアイデンティティは、時に自らの信念のみに頑なに従うばかりに、外部からのサジェスチョンを受け入れられず暴走する。しばしば、大人にとってはごく些細なことが、子供たちにとってはその存在意義を左右するほどに重大事項になりうるのは、その所以であろう。自分自身の小学校、中学校、高校時代を思い返してみると、いちいち思い当たることばかりだ。

学校というのは、来るべき将来に備え、実際の社会生活のシミュレーションをするところであり、またそのための様々な約束事を学ぶ場だ。従って、集団の秩序を守るために設けられているルールが、そのまま学校生活でも適用される。反抗期の子供たちも基本的には、守るべきルールには従うことが義務付けられる。どんなに校則に不満があろうが、それが秩序保持のためならば一定の理解と忍耐も必要。それを子供たちに教えるのも、学校の大切な役割であると思う。しかし、“学校”の意義が一人歩き始めるのは大問題だ。学校制度、またその運営に関わる教師陣の体面を守るためだけに、理不尽な戒律でもって生徒たちを拘束する危険性が生じるからである。そこには、“経験豊富な教師が未熟な生徒たちを教え導く”という構図は存在しない。あるのは、権力を笠に着た教師による非力な生徒の支配構造であろう。
親元から遠く引き離された情緒不安定な年代の子供たちを、特殊な世界観と封建的な倫理制度が支配する異様な“寄宿社会”に押し込めて、不気味な英才教育を施す寄宿制度。もちろん、世界中の寄宿学校が全てそうだというわけではないが、その寄宿制度そのものの持ついびつな構造は、今作の物語に常に付きまとうものだ。端的に言って、それこそが今作に暗い影を落としている唯一の要因であるし、アレクサンドルの一途で情熱的な愛情と、ジョルジュの子供から大人への過渡期にある迷いを含んだ曖昧な愛情とのすれ違いを生んだ原因でもある。

年下でまだ子供子供したアレクサンドルの直情的な愛は、彼よりは年上で悪知恵も働く(いい意味でも悪い意味でも)はずのジョルジュの愛を遥かに凌駕するほど大きかった。それを証明したのが、当のアレクサンドルによる悲劇的な投身自殺であったということだ。多くの観客の涙腺を直撃せしめたのもそういった物語の流れであろうし、おそらく製作側も、子供の穢れを知らぬ純粋な愛情が、大人たちの思惑と恋の相手である少年自身の苦し紛れの打算によって踏み躙られていく様を、悲劇として描きたかったのだろう。

だが今作をよく観察すると、実はまた別の感慨も生まれてくる。初見時には、とにかく杓子定規な戒律を振りかざすだけしか能がないバカな神父たち(大人たち)に怒りしか覚えなかったわけが、今はちょっと違う。子供らしいガンコさと思春期特有の浮ついたロマンチシズムでもって、己の恋に暴走するアレクサンドルと、終始彼に引きずられ、リードされるような形で同性との禁じられた恋愛に足を踏み入れるジョルジュとの間には、常に“温度差”が感じられるのだ。
アレクサンドルは、自分が“同性を愛する”というキリスト教の禁忌を犯していることをはっきりと自覚していたし、精神的な結びつきだけでなく、肉体的にもジョルジュを欲していただろうことは随所から窺える。例えば、温室内で行われた“血の契り”の儀式に漂う、なんともいえない隠微な官能性。あるいは、小屋の中での逢瀬でアレクサンドルが見せる大人びた表情。先に相手を見初めたのこそジョルジュであったが、明確な意志を持って相手を“愛した”のは、むしろアレクサンドルの方であった。彼が、ジョルジュへの“愛情”を当の本人に“友情”だと訂正され、あれほど激昂したのももっともなことなのだ。


アレクサンドルとの関係に迷いと憂いを抱えていたジョルジュは、アレクサンドルと出会う前、友人ルシアンの“特別な友だち”フェロンを半ば陥れるような形で学園から追放していた。その後の彼の運命から鑑みるに、これは一見矛盾した行為のようにも思える。しかし、このときのジョルジュにはっきりとした“同性愛”の自覚はなかったはずで、無意識のうちにそれを畏れる心理の方が強かったと思われる。つまり、同性への憧れはジョルジュにとって“未知”の領域であり、従って封印すべき感情であったのだ。だが、誰かを好きになるという行為は理屈ではない。理知的で学業優秀、敵対する神父たちと対等に渡り合う程頭脳明晰でもあったジョルジュは、解析不能な“同性を愛する衝動”に突き動かされて、ただ混乱していたのだろう。
また、旧家の令息でもあるジョルジュにとって、いかにアレクサンドルを愛しく思っていても、そのモラルを縛るキリスト教に反する行為には、やはり今一歩踏み出せない面もあったのではないか。彼は、アレクサンドルとの関係も、あくまでも理性に照らして常識の範囲内で受け入れようとした。己の感性と本能が命じるまま、愛情に殉じようとするアレクサンドルとは対照的である。
それを象徴するシーンが、万能なジョルジュが唯一苦手とする科目、ピアノの個人レッスンを受ける場面である。神父たちに関係が知れることとなったジョルジュとアレクサンドルは、一目会うこともままならなくなるが、アレクサンドルは監視の目を掻い潜ってジョルジュの間近に立つ。ピアノを教える神父が盲目であるからこその大胆な行動だ。情緒的なアレクサンドルは音楽を愛している。彼はジョルジュと違って、感情を押し殺して理知的に振舞うことは苦手だ。ピアノは彼自身の鬱屈とした感情を発散させる手段であった。そのアレクサンドルのリードに導かれ、常識や知性にがんじがらめになっていたジョルジュの頑なな手も、鮮やかにバッハの旋律をなぞり始める。それは、ジョルジュが様々なしがらみをひととき忘れ、アレクサンドルへの想いに素直に身を任せた結果であった。“知”と“情念”は同時に並び立つものではないが、互いに歩み寄ることは可能なのだ。


神父たちが、躍起になってジョルジュとアレクサンドルを引き離そうとしたのはなぜか。物語冒頭、ルシアンの恋人フェロンが、ジョルジュの密告によって問答無用で放校処分になったことを思い出して欲しい。たかが、同性の友人と特別仲が良いというだけの理由で退学とは、学校側の対応は過敏過ぎるのではないか。
だが、彼ら子供たちが揃って名家の子息だということを忘れてはならない。つまり彼らの親は、いずれも学校の強力なスポンサーだということだ。神父たちは、狭い宗教界で生き延び、栄達するために、自らの足場を脅かす出来事―スポンサーから預かった子息たちの管理に失敗すること―を未然に防がねばならない。神父たち自身の保身のために、子供たちの引き起こすスキャンダルはもみ消す必要があるのだ。学校を守る義務のある校長はもちろんのこと、言葉巧みにジョルジュを揺さぶり、追い詰め、最終的に白旗を揚げさせることに成功するローゾン神父にとっても、子供たち同士の恋愛沙汰は避けるべき問題であったと想像できる。
余談だが、ジョルジュとアレクサンドルの関係を最初に疑うトレンヌ神父の執拗な追及と、彼の子供たちへの接し方には、何か尋常ならざるものがありはしないか。一見、世慣れた風で子供たちと対等に対峙しているように見えて、その実神父たちへの絶対服従を強制しているようだ。ジキルとハイド的二面性の裏には、ひょっとしたらトレンヌ神父自身の秘められた性癖があるのかもしれない。


こうした神父たちの同性愛への警戒姿勢からは、逆にその種の事件が多かったことが窺える。親元から離れて不安定になった思春期の子供たちは、孤独を埋め合うように同性の子供たちと絆を結んだのだろう。その行為は、友情とも愛情ともとれる、どっちつかずの曖昧な愛の形。単なる孤独の代替であるのか、はたまたそれより一歩踏み込んだ関係であるのか、当人たちも自覚できていないに違いない。監督のジャン・ドラノアによると、実際に寄宿学校で学ぶ子供たちの中には、愛しい相手の姿を一目見ようと、早起きして朝の礼拝に駆けつけるなど涙ぐましい努力をする者がいるのだそうだ。
さて、どんな罪を背負った人間にも等しく愛と救済を与えたもうたキリストの教えと、同性愛とが相容れないというのは、どこか矛盾を感じるし悲しむべきことではないか。愛した相手が同性だったということについて、その当事者たちには何の罪も迫害される謂れもない。“万人を愛せよ”と教え説く宗教が、他ならぬ他者の愛情に飢えている子供たちを傷つけてしまうなど、本来あってはならないことだ。そこに、宗教とそれを支える聖職者たちの偽善を感じる。
アレクサンドルが、キリスト教で厳しく禁じられる“自殺”の道を選んだのも、融通の利かない戒律に隷属する神父たち…ひいては宗教界全体…への強烈な皮肉だったのではないかと思う。また、ジョルジュとアレクサンドルの関係を純粋たらしめたのは、ほかならぬ神父たちであったという皮肉にも注目したい。神父たちが規律とモラルで子供たちの自由を奪ったからこそ、2人の“友情”は肉欲に溺れることなく、美しいままの姿で“純愛”に昇華されていったのだから。

かけがえのないものを失ってはじめて、ジョルジュはアレクサンドルへの自身の“愛情”を受け入れることができた。ジョルジュの中に巣食っていた知性による頑なさがついに消え、情念によって急速に潤っていったのだ。ようやく大人へのステップを一段上がった彼は、これからどんな人生を歩むのだろう。果たして時間は、彼の無念を癒すことができるのだろうか。

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