ウマシマジが果たした役割・・・出雲の監視

国譲り神話に基づいて追っていくと天照と大国主間で合意ができ、日本列島内にできた最大の国「出雲国」を天照系の国「金官伽耶」の管理下に入れることに決まった。これをきっかけに大動乱が発生した。

出雲の国を管理していた軍隊や役人など数万人が朝鮮半島のスサノオの出身地に引き上げていった。武器等手元にあった不要なものは山の中に埋めて相当短期間に高霊の地に戻っていったからここでは大混乱が発生して土地争いや喧嘩が相次いだ。こうして倭国大乱になってしまい男たちでは収集できなかった。巫女卑弥呼による霊力によってのみ全体をかろうじてまとめることができ、邪馬台国にまとめることができた。収まるまでに30年以上の長い時間が必要であった。

出雲の国はその後どのようにして管理されていったか検討してみる。

(1)スサノオ系に代わって天照系に代わった。国譲りに応じた大国主命を祀るため、天日隅宮(あめのひすみ=出雲大社)が建設された。その祭祀を行ったのが天穂日を始祖とし、その子建比良鳥(タケヒラトリ)を第2代として執り行われた。

出雲国造は出雲国の跡地を上古に支配した一族である。その長が代々出雲大社の祭祀と出雲国造の称号を受け継いできた。途中で国造家は千家氏と北島氏の二つに分かれたが夫々54代と現在までに引き継がれている。

最初の出雲国造に任じられたのは「先代旧事本紀」によれば第12代宇加都久怒(ウカツクヌ)からであるが、千家家の伝承によれば第17代出雲宮向からであるという。2代の建比良鳥は東国の開発者として武蔵国や千葉の上海上・下海上・伊甚国、遠江各地の国造の祖になっている重要人物である。

(2)ニギハヤヒの天孫降臨
ニギハヤヒは天照神の命令で、天の磐船に乗り、河内国の川上、枚方(ヒラカタ)の地に至り、サキイチ(私市)から磐船神社のある現在の磐船街道を歩かれて生駒山にあるイカルガノミネに天降った。その後ヤマト国の鳥見(トミ)の白庭山・・(桜井市)へ移ったと旧事本紀に記されている。ニギハヤヒが天下ったときの随員はカゴヤマ、フトダマ、など天族の主要メンバー32人が防御の人として随行した。当然のことながら息子の天香語山(カゴヤマ)とウマシマジもこの集団に加わって行動を共にしている。

(3)ウマシマジの事績
石見の国一宮に「物部神社」(島根県大田市川合町)が存在している。その由緒に次の記述がある。

************************************
御祭神ウマシマジ命は、物部氏の祖神として知られております。父神であるニギハヤヒ命は十種神宝を奉じ、天磐舟に乗って大和国哮峯に天降り、御炊屋姫命を娶られウマシマジ神を生まれました。彼は父神の遺業を継いで国土開拓に尽くされました。
神武天皇御東遷のとき、忠誠を尽くされましたので天皇より神剣韴霊剣を賜りました。また、神武天皇御即位のとき、御祭神は五十串を樹て、韴霊剣・十種神宝を奉斎して天皇のために鎮魂宝寿を祈願されました。(鎮魂祭の起源)
その後、彼はアメノカゴヤマ命と共に物部の兵を卒いて尾張・美濃・越国を平定され、カゴヤマ命は新潟県の弥彦神社に鎮座されました。ウマシマジ神はさらに播磨・丹波を経て石見国に入り、都留夫・忍原・於爾・曽保里の兇賊を平定し、厳瓮を据え、天神を奉斎され(一瓶社の起源)、安の国(安濃郡名の起源)とされました。
次いで、彼は鶴に乗り鶴降山に降りられ国見をして、八百山が大和の天香具山ににていることから、この八百山の麓に宮居を築かれました。(到着地は折居田)
**************************************
(4)社殿創建
最初は神体山である八百山を崇めていました。 後に、天皇の勅命により継体天皇八年(513年)社殿を創建し、その後、石見銀山争奪の兵火などで三度消失しました。宝暦三年(1753年)再建され、文政元年(1818年)の修理を経て、安政三年(1856年)宝暦時の規模で改修され現在に至っています。(現在、県指定文化財)春日造では全国一の規模です。
物部神社の御神紋「ひおい鶴」
この鶴に乗って勝運を運んできた神にちなんで真っ赤な太陽を背負った鶴を全国で唯一この物部神社の御神紋と定められました。

日本海の海岸から少し入った石見銀山の鉱山のある大田市に物部神社は存在する。ここから出雲地方の動向を注視していたものと考える。

(5)アメノカゴヤマと彌彦神社
弥彦神社は越後平野西部の弥彦山(標高634m)山麓に鎮座し、弥彦山を神体山として祀る神社である。主祭神は天香語山である。
『万葉集』にも歌われる古社であり、祭神の天香山命は越後国開拓の祖神として信仰されたほか、神武東征にも功績のあった神として武人からも崇敬された。源義家や源義経、上杉謙信などに所縁と伝えられる武具などが社宝として展示されている。宮中同様に鎮魂祭を行うとして、石上神宮・物部神社と共に有名である。弥彦山頂にある御神廟(奥の宮)が天香語山の神廟にあたるとされる。
祭神の天香山命は、『古事記』に「高倉下」として登場する。社伝によれば、命は越後国開拓の詔により越後国の野積の浜(現 長岡市)に上陸し、地元民に漁撈や製塩、稲作、養蚕などの産業を教えたとされる。このため、越後国を造った神として弥彦山に祀られ「伊夜比古神(いやひこ)」として崇敬された。このほか、彌彦の大神は、神武天皇即位の大典の際に自ら神歌楽(かがらく)を奉奏したとされる。
(6)カゴヤマとウマシマジ遠征の目的
ニギハヤヒの河内・大和降臨の後、最も重要な2人の息子が遠く越と出雲に遠征し、国津系から譲られた出雲の国の領域の安全を確認するために先ず越の東端まで出向いて弥彦にカゴヤマが滞在、亡くなるまで監視を続けた。
ウマシマジは越から更に西進し瀬戸内海の国の彼らに刃向ういくつかの賊をやっつけた。ついに出雲大社をコントロールできる直ぐ近く(島根県太田市)までたどり着いてそこに定住して出雲の領域の西端を監視した。
この両者を結ぶ範囲が大国主が渡した出雲国の範疇であり、四隅突出型墳丘墓の領域であった。二人の大王はその地で没したという。

(7)アメノカゴヤマの後継者
香語山命の息子、天村雲―天忍人と続いて越後開拓の労を重ねたものと思われる。4代目の奥津世襲(オキツヨソ)、別名葛木彦が尾張連の祖になっていることから大和に戻り尾張の地に進出していったのではないかと思われる。彼の妹世襲足媛(ヨソタラシヒメ)が孝昭天皇の妃になり孝安天皇と押垂彦を生んでいる。
(8)ウマシマジ神の後裔
ウマシマジは石見の地で地元活目村の娘師長(シナガ)姫と結婚して2人の男子を得た。彦湯支(ヒコユキ)の子、出雲醜とその子ども大木食、六見宿祢、三見宿祢などは摂社や末社に祀られていてここで生活していた跡がうかがわれる。
物部神社の背後、八百山、南尾根の上にはウマシマジの墓、円墳が存在している。

(9)石上神社の創建
伊香色雄(イカガシコオ)崇神天皇の時「天社」と「国社」とを設定して神に捧げるものを分けて物部が作った神祭りの供物で八十万神の神々を祀った。この時布都(ふつ)大神の社を大倭国山辺郡石上村に遷して建てた。天照神がニギハヤヒに授けられた天つ印の瑞宝も共に収めて石上大神と申し上げた。石上神社は国家のため、物部氏の氏神として崇め祀った。イカガシコオ大臣とイカガシコメ皇后2人が石上神社をお祀りした。以降ウマシマジの後継者、物部氏は石上神社の祭祀者として大和の地に根を張っていった。

(10)崇神天皇出雲大社の神宝を見たい
崇神天皇は出雲大社の神宝を見たいと言い出した。武諸隅(タケモロスミ)を出雲に派遣した。出雲では振根(フルネ)が神宝を主宰していたが、フルネの留守の間に、弟の飯入根(イイイリネが)神宝を提供してしまう。そのため内紛が起こり振根が飯入根を殺害してしまったので、朝廷は吉備津彦と武渟川別を派遣して、振根を誅殺する。この事件はウマシマジや出雲の国造など物部一族が管理している宝物を大和朝のトップが全く知らなかったことの証拠。
(11)四道将軍の派遣
崇神天皇のとき遠国の人々には未だ自分の方針が伝わってないので教化に努めたいと大彦を北陸に、武ヌナカワ別を東海に、丹波道主を丹波に、吉備津彦を西海に将軍として派遣した。とあるもこれは既にウマシマジとカゴヤマが行ってきたことで改めて遠征の必要が感じられないし実際に遠征してどのようなことがあったのか一切記録が無く崇神朝に行われた動きとは考えられない。
テーマ
気持玉(0)
トラックバック (0)

トラックバック用URL

コメント (1)
紹介

百花繚乱 http://www13.ocn.ne.jp/~ryouran/
おほもと http://www.oomoto.or.jp/
言霊百神

コメントする

ニックネーム
本文

BIGLOBEニュースロゴ

ニュースをもっと見る

最近の画像付き記事