宝塚歌劇一期生、・・・宝塚唱歌隊として発足

  私は少女歌劇が好きで、・・・現在活動中の少女歌劇団となると宝塚歌劇
、OSK日本歌劇団、雪月花歌劇団(七尾市加賀屋)、それとハウステンボス歌
劇団(佐世保市)であるが、あまりに宝塚歌劇の圧倒的な勢力なので他の歌劇
団を応援したいという、私が応援したところでなんの意味もないが、・・・気持ち
がある。・・・さて、宝塚歌劇団であるが、まず大正2年7月に宝塚音楽学校が
「宝塚唱歌隊」という名称のもと、生徒を募集したのがその最初である。といっ
て最初で全く知名度も信用もなくて、・・・その頃はまだ生徒とは言わなかったが
、・・・唱歌隊の少女たちを集めるのは容易なことでなかった。とにかく大変な努
力の結果、はじめて16名の少女たちを集めた。最初の公演は大正3年4月で
あり、箕面有馬電鉄の宝塚終点にある宝塚パラダイスの博覧会開催と同時に
歌劇「ドンブラコ」を公演した。同時公演は喜歌劇「浮れ達磨」、ダンス「胡蝶」
であった。

  宝塚歌劇一期生の、「宝塚唱歌隊」入団者(途中脱落した人もいるので16
名より多い)

 


 16名は高峰妙子、雄島艶子、外山咲子、由良道子、八十島揖(ゆう)子、
雲井浪子、秋田衣子、関守須磨子、三室錦子、小倉みゆき、大江文子
、松浦もしほ、三好小夜子、筑波峰子、若菜君子、逢坂関子

 処女公演「ドンブラコ」桃太郎の鬼退治の物語で四幕

 左から犬の八十島揖子、桃太郎の高峰妙子、猿の雲井浪子(雉子の
由良道子)

 


 喜歌劇「浮れ達磨」

 


 ダンス「胡蝶」

 


 といって唱歌隊を作った頃は、宝塚を信用してどんどん入学してくると
いうには、ほど遠く二期は入学者は四名にとどまった。ともかく大正2年
12月には何とかやっていけそうと考えて「宝塚章少女歌劇養成会」と名
称も変えた。

 やがて大正8年1月には文部省の許可を得て「宝塚音楽歌劇学校」と
名前を変え、その頃から徐々に入学者も増加していった。そこで入学者
を広く一般から募集しようということになり、思い切ってやってみたら大正
10年に50名もの入学者があった。そこで遂に入学試験を行うことになっ
たのが大正12年からである。

 ★宝塚という誕生地について

 このレヴュウのふるさと、宝塚は今でこそ大阪、神戸の離れ座敷で
あるが当時は武庫川の清流に臨んだ六甲、有馬からの小さな駅であ
り、古来、鉱泉が湧いていた。そこへ大阪から、箕面、有馬を結ぶ箕面
有馬電鉄が明治43年3月10日に開通、ここにその当時としては非常に
モダンな大理石の大浴場と室内プールを有した宝塚パラダイスが出来
たのが翌明治44年7月1日であった。これも当時としては、先進的な室
内水泳場が利用者が少なく、ここに少女唱歌隊を作って、新しい余興
の道を開拓しようということになった。

 武庫川の東岸の一角に立つ何かアラビアンナイトにでもせてきそうな
可愛いパラダイスの建物は、清流と川を隔てた武庫山の緑と、河岸の
草深い松林の中に、実に輝いていたという。今の宝塚大劇場などが
建っている辺りは、天正の昔、伊丹城主荒木村重が武庫川河口を開拓
し、村重が滅んでからは天正14年秀吉の命を受けた片桐且元が修築し
て堤防を築いたと史実にはある。山紫水明、京阪神の離れ座敷として
絶好の地を得たこと、その人を得たことがその後の発展の基盤となった


 ★破格の日給25銭

 いよいよ唱歌隊を作ることに決まって、少女たち集めにかかる一方
で、その指導者として責任ある音楽家を集めることになり、箕面有馬
電鉄の小林一三専務の命を受けた藤本一ニが知人の音楽家の安藤
弘、ちゑ子夫妻を招いた。さらに安藤の紹介で音楽家の高木和夫も
着任した。

 集まってきた唱歌隊の人たち、すなわち第一期生はどんな感じだっ
たかというと、高木峰子などは

 「私は小学校を出て職業婦人になろうと思って三井物産に合格して
いたんですが、好きな歌が歌えてお金もいただけるというので、宝塚
の試験を受けに行ったのです。たしか婦人唱歌隊の人を探している
というので、それで少女に見えたらダメと思って、ほんの小さな少女が
キリリと髪を引き詰められて、古風な束髪をデンと結って目は釣り上げ
たまま、緊張して試験に行きました。試験官は事務所の藤本一二と安
威勝也先生で、やさしい歌を歌わされただけで『明日から出てこい』と
言われました。お稽古はコオーリューブンゲンと、中等学校の歌と、ピ
アノとヴァイアーでした。初めは日給25銭、いまだったら大学出の初任
給よりいいでしょう」

 そこであまりに待遇が良いので、その頃、はやっていた生肝を取って
大陸に売るといわれた六神丸の材料にでもされるのでは、と親たちは
本気で心配したという。警察官だった高峰妙子の父親などはちょっちゅ
う、巡査の服装で稽古場に来て監視していたというくらいである。

 ★第一回公演へ

 安藤ちゑ子が声楽、高木和夫がピアノとヴァイオリンを教えて、第一
回の公演には間に合わなかったが、給仕という名目で音楽好きな青年
を集めて楽団の組織化にもとりかかった。

 唱歌隊を募った大正2年は、その翌年に第一次大戦が始まり、暗く
不景気な時代であった。しかしこのような時代において発足し、黙々と
新しい国民演劇を創ろうとした関係者一同の熱意は並々ならぬもので
あり、教育を実際に受けた少女たちに、これならば歌劇も出来るという
明るい見通しもついて、大正2年12月、宝塚少女歌劇養成会と名前を
改めて、第二年目に入って歌劇の本格的訓練にとりかかり、振付の教
師として高尾楓蔭、久松一声が招かれた。

 久松一声は、桃太郎の鬼退治をテーマとした「ドンブラコ」の振付けを
担当し、桃太郎に歌舞伎の六法をくづして用いた。やれるものなら本格
的に六法を積ませる考えだったが、そうでなくても何を教えられるか、言
われるかとビクビクしている女生徒たちが「うちら、歌舞伎役者の真似を
するのは嫌やわ」と言い出したのと、また基本的な踊りの素地もないこと
から、とっさに「なるほど、少女には少女の振りが必要であるし、今までど
おりの型式を打破しなければ」との天恵ともいうべき閃きを得たそうであ
った。

 これが宝塚の近松とかシエークスピアともいわれてレビュウが出てか
らも宝塚情緒は久松情緒といわれるにいたった久松一声独自の歌劇を
生んだのである。

 第一回公演は大正3年4月「ドンブラコ」他二曲開演と決まって12日間
も続けて舞台で稽古を繰り返した。これは大正13年、宝塚大劇場が開
場するとき、開場公演の「女郎蜘蛛」で舞台一面の蜘蛛の巣を登ったり
降りたりして立ち廻るため、武士役の天津乙女が開場前の舞台で綱で
編んだ蜘蛛の巣を作って10日ほどもそれを登ったり降りたりの訓練を
行ったのと同じであり、劇場を所有する劇団の強みであっった。

  大正4年7月公演「舌切雀」

 左が雲井浪子(忠太郎役) 右が関守須磨子(爺さん役)

 
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