こけしの話(21) 蔦作蔵

 先日、僅かばかりの無為庵所蔵品を若い友人に披露する機会があった。鑑識眼の確かな人で楽しくも濃密なひと時を過ごしたが、後片付けをしながら数えてみると20点足らずのものでしかなかった。じっくりと鑑賞するにはこの程度の数が限界のようだ。いろいろ啓発される言葉もいただいた。そのひとつに「色情報が多いとこけしの持つ本質が見えてこない」という言葉があった。保存状態が良すぎると原色の持つインパクトにこけしの本質が隠れてしまうことがある。「色」を情報として捉える視点を得たことに唯々感謝する。



 今回は、こけしの話(11)の蔦作蔵と並べて拙著「蒐」に掲載した蔦作をお目にかける。今回の掲出にあたり拙著を読み返したところ「大ぶりな胴絵に原初のエネルギーを秘めた妖しいまでの表情」としていた。重ね菊は後年の蔦作にも数多く残っており、天江、らっこ、鼓堂など各コレクションには大正末から昭和初期とされるものがあるが、これらと掲出の蔦作の胴絵には懸隔といえるほどの質的、感覚的相違がある。掲出品は花心が肩に懸かり、最上の花弁が首に描かれ、さらに、花芯が胴中央部占拠するように描かれているため正面から花弁がほとんど見えない。花弁も見えず、胴中央の大きな赤点ばかりが目立つような胴絵は、正面からの花を見せようとはしていないようだ。



 各コレクション蔦作は程度の相違はあるものの、胴中央の菊花を見せようとするものであり花弁の数も多く華やかに描いている。天江手は花芯が比較的大きく掲出品に近いようにも見えるが、花が肩に懸からず花弁の外側先端が正面から見えるなど、正面からの花を見せようとしている点にかわりはない。



 上図は側面写真であるが、側面といっても花弁の先端を入れるため少々背面よりになっているが、側面からでは顔がまったく見えない。人形である以上、顔の見えない人形など存在理由がないとすれば、この蔦作は胴絵を見せようとはしていないか、左右斜めから見るときに重点を置いたのかのいずれかであるとしか考えられない。後者は穿ちすぎとも思えるので、胴絵を見せることをさほど意識しなったといったところであろう。胴絵は顔をひきたてる道具でしかないと無為庵は思っているが、その例証のようなこけしである。



 次に表情のアップをお目にかける。画面では判りづらいかもしれないが、両瞼を描いた後に細筆で眼点の位置と大きさを決めてから眼点を塗りつぶしている。眼には注意を払いながら、胴絵は大胆に描いている。これは表情を見せることに最大の意を用いているとしかいいようがない。眼点の大きなこけしは可愛いだけの平板なものになってしまうことが多いが、この蔦作のあどけなくも不気味な表情は、時により様々な顔を見せる。ときとして目が動くようにも見える。嵯峨人形にも通じるこの味わいは得がたいものであり、蔦作の力量の非凡をみせている。無為庵が蔦作を高く評価する所以である。(6寸)


(追記) 「色」情報という観点が蔦作を掲出するきっかけとなったが、仮に保存状態が良いものであったなら表情への注視度が減じるのかもしれない。「色」とは難しいもののようだ。 


(2016.11.2追記)側面写真のデータがないので、胴上部の菊が肩にかかる写真を載せた。胴絵が大振りに大胆に描かれている様はやはり側面写真が分かりやすいのだが、正面からでも他の蔦作との違いを見てほしい。


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