節季に寄せて【寒露】 〜 菊作り汝は菊の奴かな(1)

  



 十月――黄金色に実った稲の穂が刈り取られるころ、秋祭りの季節がやってきます。

 春、山から下りてきて田の神となっていた山の神は、人びとの感謝のことばと祭りの灯に見送られて山の奥深くへと帰っていきます。

 今年もまた、一年の営みの大半を為し終えたのです。











 この秋祭りによく見かけていたのが菊人形でした。
 もっとも、どこの秋祭りでも、というわけではなく、ある程度大きな神社でしかみられなかったようです。

 かなり以前のことですが、この菊人形はいつ、だれが始めたのだろうと思い、本屋をのぞいてみたことがありました。
 菊人形ですから当然、「草花の菊」の本がありそうなところをほっつき歩いてみたわけですが、菊人形のことを書いている本は、ほとんどありませんでした。


 わかったのは、菊人形は、菊細工ともいい、江戸時代の文化文政のころ始まり、明治になると団子坂の菊細工が有名だった、ということくらいでした。
 これだけでは、何となく、隔靴掻痒の感あり、というところですが、いつしか興味も失せていってしまっていました。

 本を探すコーナーが間違っていたのだ、と気づいたのは、菊人形は『草花』ではなく、『見世物』という巨大なジャンルのなかの小さな要素にすぎないと知ってからのことです。


 江戸時代の見世物の研究は、長い間、細々と、個人頼りに行われ、ようやく、近年にいたってかなり盛大になってきたようです。

 一九九九年には、「見世物興業をしている人たちと研究者が共同して」見世物学会が設立され、毎年、総会が開かれ、学会報である「大見世物報」も発行されているようです。
 見世物学会の「公式ブログ」2010年7月24日付けによると、


******************

 ハイホー!
 見世物学会通信「大見世物報」第13号が、
ついに完成しました〜♪
 今号、豪華執筆陣(敬称略)と充実の内容は、

「説経節」(田之倉稔)
「サーカス -大天幕に生きる-」(坂入尚文)
「魔力の窓」(大谷信太郎)
「ショータイム」(首くくり栲象)

 という奇跡のラインナップ☆

 恒例の細田秀明先生、および猫蔵の編集後記もございます。

 そして、待望の今年度・学会総会の開催が11月28日(日)早稲田講堂に決定!

 今年の総会はいつになく嵐の予感っ・・
 見世物ファンなら褌いっちょで見に来いや〜

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 と、学会とは思えない砕け方で、加えて、

 ――神田の骨董屋で奇妙なものを入手。通称「魔女の手」

 などという記事が載るというユニークな学会公式ブログなのですが、なにぶんにもこのブログ、更新されることが希でほとんど情報源として使えず、しかも、

 ――★☆ここは見世物を愛する見世物フリークスのページだよ♪公式HPもヨロシクね♡♥

 と、書いてあるにもかかわらず、公式HPはどこにも見あたらないという、まるで、見世物小屋で呼び込みをしているオヤジにまんまと乗せられて小屋の中に押し込まれたような気持になってしまうという、不思議な学会なのです……




 江戸の見世物は、今日、私たちが縁日で眼にする見世物小屋ではありません。 

 江戸時代の見世物は、今よりはるかに巨大な存在であり、「show(ショー)」「exhibition(展覧会・博覧会)」「circus(サーカス)」という三つの要素が渾然一体となった、世界でもめずらしいものでした。

 そこで演じられたものも、菊人形のような細工物から軽業、手品、玉乗り、謎解き、女相撲、居合抜き、曲独楽もあれば力持ち、鬼娘に屁ひり男、講談までと、およそ、人に見せることができるものであれば何でも見世物にしていました。

 また、木戸銭(入場料)も安く、江戸・大坂の庶民にとって歌舞伎が「覚悟を決めた遊興」(「江戸の見世物」 川添祐)だとすれば、見世物は――内容によって――八文、十六文、三十二文と極めて安く、今日でいえば、
 ――映画を見て、ちょっと食事でも
 と、いった感じの気軽なレジャーだったようです。

 江戸時代の見世物は、一芸一小屋でした。
 居合い抜きのような大道芸は別ですが、たとえば軽業だと「早竹虎吉一座」などと銘打って、彼ら専用の小屋をかけて興行をおこなったのです。
 現代の旅役者の一座と同じです。江戸の見世物師たちは、「我が芸」ごとに一座を組んで小屋がけ興行をおこなっていたのです。

 もっとも、小屋がけ興行を行えるのは、それなりの見世物の場合で、それほど人気がない芸人、あるいは、小屋がけに適さないものなどは、寄席などを使って興行していたようです。

 限られた見世物だけとはいえ、一芸ごとに一座を組んでいれば、見世物の種類が途方もなく多いのですから、かける小屋の数も多くなります。

 江戸の盛り場の第一は両国で、つぎに、浅草奥山、上野山下とされていますが、この界隈には、見世物小屋が、文字通り、軒を連ねて建っていたようです。

 両国が盛り場になった理由は、橋の両側が火除地(防火のための広い空き地)になっていたためのようです。

 おもしろいのは、両国橋の東西で性格の違いがあったようで「すべて西両国から見ると、東両国は下等であった」(「江戸に就いての話」 岡本綺堂)。

 しかし、上品な西両国は、江戸の市街地と地続きであるためかいろいろと規制がやかましかったようで、文化文政のころになると「下等」な東両国のほうが賑わいを見せるようになっていました。

 浅草、上野は、江戸でも人気の寺社がある場所であり、特に浅草は、明暦の大火後、吉原が移転したこともあり、たいそう賑わいました。

 それに、もう一つ、賑わった理由があります。
 江戸の盛り場は、朝は行商の市が立ち、昼は見世物小屋が開かれ、夜は一杯飲み屋・飯屋街になるという三変化をみせていたからでもあります。





 さて、江戸の見世物はバラエティーに富んでいたということは先に述べましたが、これを大きくジャンル分けすると、「細工もの」「曲芸・演芸もの」「動物もの」「人間もの」とわけることができるようです(川添祐氏の分類による)。

 このうち、「細工もの」は終始、最大ジャンルでありながら明治以降、ほぼ絶滅しました。

「動物もの」は、明治にいたって動物園に取って代わられました。

「人間もの」というのは、人間そのものを見世物にするというものですが、ともすると、「曲芸・演芸もの」と区別がつきません。

 たとえば、「女相撲」は、川添氏の分類では「人間もの」に分類されています。

 たしかに、かなり卑猥な興行もあったようですから「人間そのものを見せる」ともいえますが、なかには、技を鍛錬し、相撲そのものを見せようというものもあったようで――見る側の関心はさておいて――これなど、技や技量を見せる「曲芸・演芸もの」としてもよさそうに思います。

 しかし、こういうことを言い出すときりがないので、川添氏初め、諸先生方の分類に従っておきたいと思います。








【魔術句・手妻】


 見世物のルーツは、奈良時代の散楽にあるといわれます。

 散楽とは、雅楽に対するものです。


 雅楽は、宮廷の公の歌舞音曲であり、格式を持ち、雅楽寮で長く伝えられていきました。

 これに対し、散楽は、俗楽であり、余興の芸能であるとされました。
 内容的にも、歌舞音曲の他、幻術や綱渡りのようなものまで雑多に含まれていたようです。

 散楽は、雅楽寮の散楽戸に属していましたが、散楽戸は、奈良時代の末期に廃止されてしまい、散楽師たちは、すべて失業してしまいました。

 とはいえ、芸は身を助けるのことば通り、彼らは、民間に根を下ろしていき、やがて、散楽の歌舞音曲は、中国風の装いを捨て滑稽な仕草ややりとりをするものへと変化していきました。

 平安時代の中期になると、散楽がなまって猿楽といわれるようになり、散楽のなかの曲芸や幻術などの「雑戯」は、猿楽の前座として演じられるようになっていました。

 やがて、雑戯のなかから、猿楽から独立して興行をする者たちが現れます。
 江戸後期の見世物へとつづく芸人たちの始まりの時でした。


 ――幻術

 おそらく、雑戯のなかで最も早く独立して興行が可能になった「見世物」でしょう。

 平安時代、すでに、牛馬の尻から入って口から出る、馬腹術があったことが伝えられています。

 当時、幻術は外術(げじゅつ)とよばれ、その術をおこなう者を「呪師(じゅし、ずし)」とよんでいました。
 呪文を唱えて悪気を除き病を治すことから、そう呼ばれていたようですが、「外術」といい「呪師」といい、当時のひとの彼らに対する気持が伝わってきそうな気がします。
 幻術の歴史のなかで傑出した存在が戦国時代の果心居士(かしんこじ)です。

 信長、秀吉、あるいは家康とさえ接触を持ったとされる人物ですから伝説のにおいが立ち籠めていますが、松永久秀とのエピソードは、妙に現実感があって創作とばかりも言い切れないような気もします。

 果心居士の幻術は、死んだ妻を甦らせたり(松永久秀)、殺されようとする寸前で鼠に化けて逃げ出したり(秀吉)、大蛇を出現させ大波を起こしてその場の者を気絶させたりと、甚だおもしろいのですが、どうも、漫画チックです。
 幻術の歴史のなかの、伝説上の人物として奉っておいた方がよさそうな気がします。




 古河三樹著「庶民芸能―江戸の見世物」では、
「桃山時代にはキリシタンの魔法と同一視され、ともに厳禁されることになった。その後は、術中の平凡なものだけが放下師に伝わって演ぜられ、のちの手品に発展していったのである」
 と、されています。

 キリシタンの魔法を怖れるような風潮というのは江戸時代に入ってからではないのか、という気もしますが、同書に従って、
 ――放下師
 のことに移りたいと思います。
 

 放下師、というのは、室町中期、田楽の衰退によって田楽から独立して興行を行うようになった法師たちのことをいいます。

 彼らが法体であったのは、寺社の修理などのための勧進興行という名目で興行を行っていたからで、時代が下るに従って、法師から俗人へと変化していきました。

 彼らの持ち芸は、輪鼓(りゅうご)と品玉、曲手鞠、幻戯(めくらまし)、築子(こきりこ)でした。



 最後の筑子(こきりこ)は、「こきりこ節」の「こきりこ」と同じで、二本の子切子(こきりこ)を打ち鳴らして唄い踊ります。(というより、「こきりこ節」の源流が放下師であるらしい。)

 放下師は、筑子を打ち鳴らしながら踊って人を集め、それから、種々の芸を見せたのでしょう。



 最初に出てくる輪鼓(りゅうご)とは、本来は、中央が鼓のようにくびれた形状のことをいいます。

 放下師たちが「輪鼓」というのは、中央がくびれた独楽のことで、くびれた部分に糸を引っかけて自由自在に独楽を扱うという芸を見せていたようです。曲独楽のようなものでしょう。


 品玉というのは、いわゆる、お手玉の高度なやつ――
 刀、とっくり、茶碗など種々のものを三つ、四つと放り投げ、手玉にとるという芸で、今日でもよくみかけます。


 曲手鞠というのは、よくわかりません。

 江戸時代になって「曲鞠」というのがはやります。

 鞠を手で突いたり、頭や肩に乗せてみたり、あるいは、扇に乗せてみたりと、どうも、これでも見世物芸かという芸なのですが、「庶民芸能―江戸の見世物」によれば、

 ――曲鞠の鞠の弄び方は、やがて「民間婦女子」がまねするようになり、ようやく、手で板床に突いて弾ませるという鞠遊びを盛んに行うようになった――

 ということは、女の子の鞠遊びは、放下師の遺産で、江戸時代も百年が過ぎた元禄のころからということになるのでしょうか。





 放下師の持ち芸のなかで最後に残った、
 ――幻戯(めくらまし)
 この技のみが、幕府の弾圧によって未来永劫断ち切られてしまいました。


 幻戯に「縄たらし」という奇術が伝えられています。
 たらし、というのは「女たらし」と同じで「だます」という意味です。

「縄たらし」では、縄で雁字搦めに縛られたのち、掛け声とともに縄を解いてしまいます。

 また、「縄切り」というものも伝えられています。

 長い縄を数カ所で切断し、結び目を作ってつなぎ合わせ、それを観客に投げると、結び目のない一本の縄になっていたといいます。

 あるいは、山芋をウナギにし、底なしの桶を重ねて中から人形、鳩、行燈、生きた牛まで取り出す……

 いずれも本格的な奇術であり、今日でも十分通用する技であり、今日も行われている技ですが、もっとも有名な技は、何といっても、
 ――呑馬術
 でしょう。
 

 呑馬術に説明はいらないでしょう。
 見ればわかります――馬を呑みこんでしまう奇術です。

 これを行ったのは、大阪の塩屋長次郎。

 この絵に、井原西鶴が文章を付けています。

*******************

「天野川といふ目くらかしは、思ひもよらぬ所より鯉鮒を出し」

 天野川というのは夜空の天の川のことで、「天の川」という幻術は、空中から鯉や鮒を取り出す、と西鶴はいいます。

「また、隠れみのといふには、座敷に島を見せ、数々のたから物出しける」

「隠れ蓑」という幻術は、座敷に島を出現させ、(箱の中からか?)たくさんの品物を出してみせる。

「中にも、ちいさい口へ馬を呑ける」

 これが呑馬術のことです。

「きのふハ誰が見た、けふハ我が見たと……」

*******************

 凄い評判になっていたことがわかります。

 見る方も度肝を抜かれたのか、錬磨によって演出するほかの手品とは全く違うと思ったようです。
 彼らの気持ちを現代風に代弁すれば、

 ――呑馬術は、小手先で摩訶不思議をみせる手品と違い、大がかりな仕掛けによって観客を異次元の世界に誘うイリュージョンだ

 と、いうことでしょうか。
 また、この絵からもわかるように元禄時代には、座敷で気楽に奇術を楽しんでいたようです。


 呑馬術は、ブラックアートとよばれるものだとされています。(愛知江南短期大学紀要38 「日本古典奇術 呑馬術について」 河合勝・斎藤修啓)

 ブラックアートは、一九世紀になって出現した奇術で、まず、光沢のない黒幕で背景を被い、床も黒に統一します。

 つぎに、観客席に近いところにロウソクなどの光源を設置します。

 このようにすると、光源が観客に近いために舞台の奥が見えにくくなります。
 見えにくい舞台の奥は真っ暗ですから、マジシャンの助手が黒い衣に身を包んだ黒子となって舞台に現れても観客にはわかりません。

 あとは、マジックの内容に応じてそれらしくみせるために舞台上の白い布を持ち上げたり、逆に黒い布を使って舞台上のものを消していったりすればいいだけのこと……(それはそれで難しいに違いない……)

 もっとも、今日伝わる塩屋長次郎の呑馬術の絵では、こんな仕掛けはできそうにありません。

 しかし、この絵は、「絵画表現上の都合により」こうなったと考えていいかと思われます。
 が、この絵の通りだったという可能性も否定はできないわけで、その場合の謎解きは、果たしてできるのかできないのか……



 塩屋長次郎は、ヨーロッパ奇術に先立つ二百年前にブラックアートを考案し、呑馬術を生み出しました。

 塩屋長次郎が活躍したのは一七世紀後半ですが、一八世紀前半にかけて幻術は、大いに世に流行ったようです。

 しかし、一八世紀の後半の明和年間、生田中務が奇っ怪な術を世に行ったという理由で死刑に処せられてしまいました。
 実際に何をしたのかは伝わっていないようです。

 何を行ったにせよ、しょせん、奇術は奇術にすぎないのですが、臆病なほどの自家保存本能が徳川権力の特質のようなものであり、また、これ以前、吉宗が、いっさいの新規なるものの開発販売の禁止を定めたことも関係があるのかもしれません。

 この吉宗の法令は倹約令の一環ですが、経済理論上の要請というより、なにやら、これ以上、世におもしろいものが現れては金遣いが荒くなって幕府が持たなくなる、という悲鳴のようにしかきこえません。

 吉宗の享保の改革は有名ですが、結局やったことは百姓からの収奪の強化であり、しかも、中途半端に終わっています。

 吉宗という独裁者型の将軍が長い時間かかってもこの程度のことしかできなかったということは、すでに、江戸封建制度の矛盾が解決不能なほど深刻であり、このあとは、何とか目立たないよう上辺だけを繕っていくしかない時代に入ったということでもあります。

 それはまた、「今日も何事もなく無事であった」を最高の価値とする時代であり、「世上を騒がせる」ことを悪とする時代でもあります。

 呑馬術でもてはやされた塩屋長次郎の、その百年後、奇っ怪な術を行ったとして京の二条河原で処刑された生田中務――時代が悪かったというより、権力のばかばかしさを象徴しているような気もします。




 ともかく、生田中務の刑死によって日本の幻戯(めくらまし)は、廃絶しました。
 このあと、「幻戯よりも手先の錬磨をもっぱらにする風に帰」ることになるのです(古河三樹著「庶民芸能―江戸の見世物」)。
 


 江戸も後期、文政年間、柳川一蝶斎という手品師が現れました。

 柳川一蝶斎は、文政二年、大阪下りの手品師・谷川定吉から「うかれの蝶」を伝授されました。

 谷川定吉の「うかれの蝶」の詳細はわかりません。が、彼もまた、手品師とされているところから、紙をひねって作った蝶を扇子などであおいでひらひらと宙に浮かす、というような手品ではなかったかと思われます。

 一蝶斎は、これを改良し、たいへんな評判となりました。

 一羽の蝶から始まった芸は、二羽となり、男蝶と女蝶を主人公にドラマが演じられ、やがて、二羽の男蝶女蝶が千羽胡蝶となってクライマックスを迎えるという形に進化していきました。

 これが、日本手品の白眉ともいえる、
 ――胡蝶の舞
 です。(流派によって、「浮かれの蝶」「浮連の蝶」「蝶の一曲」などとも呼びます。)

 この芸の完成度の高さには外国人も驚いたようです。

「その蝶はきわめて簡単な方法で作られた。 一枚の紙を裂いた細長い紙片だけだった。

 これらの紙片をさらに裂いて小さな長方形にしたものを中央でひねると、それで大体胴と二枚の羽ができる。

 それからこの即席の蝶の二羽が空中に吹き上げられ、下で動かす扇の作用でそのまま浮いている。

 蝶は、たがいにたわむれ、後を追うかのように高く舞い上がり、たちまち寄り添い、たちまち遠ざかる。
 同じ扇が二羽の上にどのように働くのか不思議である。

 それから二羽はそろって近くの潅木の葉の上に羽を休めるというところだが、もっと奇妙なことに、その扇の端に静かに止まるのである」(一八五八年、日英修好通商条約の締結のために訪日したエルギン卿による記録)。

「トリックがあるならそれを考案した彼らの頭脳は素晴らしい。トリックがないなら彼らの演技はこの世の奇跡だ」(一八六七年、イギリス、セント・マーチン・ホールでのアサキチサン公演についてのロンドン・タイムズの記事)。


 トリックはあります。 →(2へ)























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おはようございます
もう少しで菊が咲き出しますね! 菊人形は小さい頃父がよく連れていってくれました。関西ではけっこうさかんでしたね。去年は湯島天神の菊人形を見ましたが、昔見た華麗なものに比べるとずいんぶん地味でしたよ。
江戸の見世物小屋、じつに面白いですね!広重の両国を描いた浮世絵、よく見ると本当だ!!見世物小屋が並んでいますね!けっこう大きいからびっくりしました。「オオイタチ」の見世物は知っていましがた、色々あったんですね!
タイムトラベルして、見世物小屋めぐりをしたいものです。「浮かれ蝶」どんな手品だったのでしょうか、興味はつきないです。奇術(マジック)のほうへ次回はいくのですね! 楽しみにしております。  
☆サファイア
江戸の見世物小屋は、巡るのがちょっとたいへんみたいですよ。敬順というご隠居さんが朝から、東両国から西両国、浅草奥山へと見世物巡りをし、夕方、湯に浸かって夕涼みをしたあと、上野で仲間と酒を飲み、「品もなくむだにふらつくふくべかな」などと日記に書いています。考えただけでも疲れそうです……胡蝶の舞は、うえの写真をクリックすると動画が見られます。千羽蝶はでてきませんが。 どうも、この記事、何気なく書き始めたら長くなってしまいました。次回は、松旭斎天勝と松井須磨子なども書きますので、それでご勘弁ください(苦笑)。ンにしても、いつ終わる事やら……
紫雲
胡蝶の舞は以前どこかで見たような記憶がありました
がどうにも思い出せない、江戸期の手妻を見ることは
ない訳ですから、デジャブかななんて・・・。
古い雛人形のなかにありました。たぶん、日田の雛人形
ではなかったかと思うのですが。
kaze・・・
実は、私も何処かでみた記憶があるんです。でも、kaze・・・さんと同様、思い出せない。もしかしたら、正月のテレビだったかな、と思っているんですが。まあ、デジャブといえば、そうかもしれないですね。日田の雛人形、まだみたことがない……一度、みてみたいとは思っているんですが……
紫雲

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