時代も世代もくぐりぬけー共生の幻像へ 平岩さんとすいごごカフェ

 
11月22日のすいごごカフェにはゲストとして、平岩和好さんを招いた。本題の内容については、筆者の秘書介助者である宮川さんがまとめてくれた記録を後ろに掲載する。ただ、平岩さんが何者であるか、初めに紹介しておこう。

 平岩さんは、もう40年近く前から一家でわらじの会に参加している。このごろでは、娘さんたちが夫や子供を伴って顔を見せたりもする。

 40年前に平岩さんは私たちと同じ武里団地に住んでいた。子育て真っ最中で、保育所の父母会の中心でもあり、その仲間たちとわらじの会に来ていた。
 

 平岩さんは大学時代、全共闘運動に関わり、退潮期には運動仲間と共同生活して、その後を探った。それから放浪の旅に出て、北海道の診療所と牧場を営む一家のもとに寄宿し、そこの娘さんと出会い、都内で暮らすことになった。さまざまな旅を経て、家業だった銀座の和装小物の老舗を継ぐことになり、現在に至る。

 高度成長が終焉し、バブル景気から大不況へとはてしなく続く時代に、平岩さんは託されたバトンを握ったのだ。その中で、平岩さんはずっと家族ぐるみでわらじの会とつきあってきた。

激変する経済状況の下で、平岩さんは銀座の本店を縮小し、他の老舗と組んで、全国各地のデパートで市を開く巡業の旅をしている。だから、年間を通して、自宅にいられる日は数少ないのだが、旅先を含めてアンテナを立てて社会と向き合っている。労協クラブという場でつきあいがあったワーカーズコープの人々を職場参加をすすめる会に初めて紹介してくれたのも、平岩さんだった。

 忙しい平岩さんがゲストで来てくれるので、せっかくだから中野形染の中野夫人と妹さんにお声をかけた。中野さんは、数年前ついに閉鎖せざるを得なかった籠染の工場と技を、高齢になった自分達や他の地域の人々が無理をしないペースで仕事をする場として生かせないかと考えている。この日も、平岩さんと熱のこもったやり取りをしていた。

以下、宮川さんによる記録。写真は、いつものように世一緒サポーター・直井さん。
 


すいごごカフェ 平岩和好さん_商いを通しみえること

    ―歴史背景に沿った平野屋の歴史



もとは刀などの装具を扱う店として創業された。歴史背景とともに店の取り扱い商品にも変化を持たせてきている。
時代によって、飾りやおしゃれを重視するようになると細かな装飾にこだわった品を扱うようになり、明治9年の廃刀令以降は、これまで刀の装飾としてきた技術をいかして、象牙や竹、鋳物、更紗、貝などを使った細かい模様の、帯締めや煙草入れ、かんざし、ピルケースといった装飾品作りに移行した。

江戸から明治にかけては日本橋、人形町の周辺が栄えており店舗もそこに構えていたが、昭和に入り外交が盛んで日本の模範の街として作られた銀座に移動。“嚢”(ふくろ)もの(=今でいうハンドバッグのようなもの)を扱う店として成り立った。

第二次世界大戦後、全体的に収入が減って財布のひもが固くなった。商売の方法自体も変えていく必要があり、地方へ販売に行ったりもしてきた。
この状況は続いてしまっており、このままでは作り手、職人がいなくなってしまう。技術は残していきたいけれど成り立たせていくのは難しいもの。日々試行錯誤を繰り返している。
平たく言えば“販売”なのだが、中身が本質的に違う。うまく工夫して現代に対応させつつ技術を残していく必要がある。

仕事とは
20代は仕事らしいことはせず、30歳頃になって父親の手伝いを始めた。最近、考える事は_人生の何割かは仕事になる。それが価値のあるものなのか_聖書の中に〈後のものはさきになり、先のものはあとになる〉とあるが、仕事はほんのちょっと動かしても評価されない、ずっと続けても偉いのか?と考える。ずっと続けていて飽きないのはいいことなのでしょうけれどね。

今後はどうなるのか
近年、収入減から技術を持って作られたものに対し、購入者が減っていたりと職人技のいかされたものは先細りもいいところ。


現在は小物を扱っている店が集まって全国で販売をする催し物を行っている。特に春・秋が多いが、そういった工夫をしてもなお悪戦苦闘している。ばかげた話だけれど、現在の日本は、この技術が海外で評価されて初めて見直される風潮がある。そういうところを逆手にとって利用するのもありなのかもしれない。現代に受け入れられるようにしていかないと、のこしたいものも残せないですからね。


 なお、下の写真は、この日も行われた恒例の盲ろう・車いすの橋本画伯のユニーク手話タイム。

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