ブラック労働でトヨタ支え無資格スーパー介助者に転身の大坂さん


 筆者が事務局長を務めるNPO法人障害者の職場参加をすすめる会の事務所である職場参加ビューロー世一緒で毎週水曜日開いている「すいごごカフェ」の報告が、昨年の末で途切れている。機関紙である「職場参加ニュース」NO.57の発行に時間を割かなくてはならなかったためだ。これから徐々にアップしてゆく。

 このすいごごカフェという「場」の特徴は、聴き手の中心が世一緒の障害者スタッフとサポーターであり、いわば彼らの勉強会であること。そして、カフェ形式をとりスケジュールをPRすることにより、世一緒の活動にふだんかかわりのない人達が「いちげんさん」としても参加できる出入り口を設けてあること。また、話し手の多くは、世一緒の担い手であったり、地域活動でつながりがある人だったり、何かの縁がある人が多いが、その人自身の生い立ちや仕事の中身や他者との出会いや人生哲学などが語られ、聴き取られるのは、たいていの場合、これが初めてだったり、ごくまれだったりする。いわば、これだけ情報が集められ、刻々と解析されてゆく時代にあって、かえって塵やバグとして抹消されてしまっている生きられた社会像を浮き彫りにしてゆくささやかではあるが重要な共同作業の一部といえよう。


 さて、今回は、1月10日(水)、「無資格スーパー介助者」として名高い(?)埼玉障害者市民ネットワーク事務局・大坂富男さんをゲストとして招いたすいごごカフェの報告を載せる。
 まとめは、筆者が夏に骨折入院し、その後もリハビリを続ける中、秘書的介助者としてすい星のようにデビューした奈っちゃん(出産を控え体調管理をしつつバイトに来てくれている20代前半)のメモをあえてそのまま用い(以下青字)、最小限度のコメントを加えることにする。

1月10日 すいごごカフェ
ゲスト:無資格スーパー介助者 大坂富男さん


パワポ、資料を使いお話しをしてくれました。


石川県七尾市、中心商店街(一本杉通り)で営まれる駄菓子店で生まれ、18歳まで育つ。


中央大学に入学、能登半島から出てきて女学生と触れ合えると思い茶道会に入った。
学生運動が盛んな時代で、茶道部でも私たちは闘う茶道部をめざし、多数派と対立した。
「東京のヤツはかっこいいなあ」と思い、平凡パンチを購入して常に平凡パンチとジャーナルを小脇に抱えて学生生活を送った。ほぼ勉強はしていなかったので、自分の興味のある分野と思い、4年で卒業後は車へのあこがれから車会社に就職。

就職後は主に、乗用車のセールスマンだった。商品を売るのではなく、自分を売るのだということで、突撃訪問や絨毯爆撃(地図上をくまなく訪問し名刺を投げ込んでゆく)を繰り返した。マツダのセールスマンに「いいよなあ、トヨタは看板だけで売れる。マツダは車じゃないと思われている…」といわれ「マツダに入らなくてよかった」とおもった。

たまたま、車なんてとても買いそうにないおじさんを訪問した時、「今はもう車じゃなくてヘリコプターや飛行機の時代だからお前、飛行機でも売りに来いよ」といわれ頭に来てドアを蹴っ飛ばして帰ったら、課長に呼ばれた。「これはいいことだ、クレームでもなんでも『大坂が来た』っていう証拠が会社に入る」と思った。

当時はブラック企業という言葉はなかった。世間的には最低レベルの仕事と思われていた。終わりの時間がない。労働基準監督署に提訴した若い人がいたようで、ある時本社から通達が来て「午後8時にショールームの照明を消せ」「道路から見えないところで仕事しろ」といわれた。「用がない奴は帰れ」といわれたが帰れば「用はないのか」となってしまうし、一日の成果がないと実際は帰れない。
親と上司は選べない。マネージャーが良い人ならラッキーだけど…ではなぜそのブラック企業でも勤め続けたのか。


魚釣りと同じように、一生懸命仕込んでやっと正式契約した時の快感があった。
入って半年過ぎてから社員自家用制度というのがあった。40代で念願かない、新車のクラウンに乗った。

その後、法人直納部に異動になった。私にとってはとてもいい異動だった。

コープ東京、50くらいの配送センターをぐるぐるくまなく回って個人宅配用車を売り込む。当時コープは三菱、いすゞ等を使っていた。今使っている車に対してのインタビューをした。当時カタログで売り込むのが主流だったが、変わったことをしよう、と提案書を出した。この会社にはこれがいい、と専用のカタログのようなもの。安全対策や環境への配慮、断熱効果がされた車だと説明した。オイルの違いを調べたり、どんな有害物質が出てくるのか日赤まで行って調べて書き込み、切り貼りした写真も載せた。すぐに電話がかかってきて「12台くれ」「40台くれ」という調子で2年で100台くらいトヨタ車になった。

NTT‐TE東京、トヨタの車は当時足回りが弱く、作業部隊の特殊車両にするには「トヨタじゃ耐えられるわけがない」といわれた。
乗用車の時のようなこつこつと回るというやり方でつづけた。

東京明販(明治のアイスクリーム販社)、
アイスクリーム用の-25℃の冷凍車。ここも手作りの提案書で提出した。ずっとエンジンをかけっぱなしにしないとアイスクリームが溶けてしまうけれど、住宅街のコンビニなんかは夜中にエンジンをかけておくとうるさい。当時はいすゞのトラックが多かったが、トヨタの車を並べて、デシベルメーターで測って住宅街や色々なところで並べたものを提案書に載せて、一台売れた。モニターとして使ってくれといって売り込んだ。屋根の高さが引っかかって事故があり、モニターが終了した。「トヨタさんがここまでしてくれたのにこのままは…」といってくれて一台だけ入れてくれた。日野自動車が「一緒にやらせてくれ」といってきて、苦労してきたのに甘い汁だけ取られるのは嫌だと思ったが、日野はトラック主流で値引きができるから負けることも分かった。

日本財団、信号渡ってすぐの所にあったのでほぼ毎日行った。「日産は出してないの?」と聞かれれば、(日産はキャラバンがあったので)カタログを持って行った。トヨタはハイエースだった。ここからたくさん契約ができた。

1998年12月1日に「40歳以上、勤続20年以上の社員に告ぐ」と題するリストラ案が来て、それを見て頭に来てその日の夕方にFAXで返信した。超ブラックな環境の下で、右肩上がりを支えてきた者たちを、汗を流さないコンサルが切り捨てることに憤って。上司からは「君は対象じゃない!」「残ってくれ!」といわれたが、そういわれるるうちが華だと思い、辞めた。当時53歳。あとで残念だと思ったのがここで年金をもらい始めちゃったこと。


辞めたころ、日本財団との取引があったりしたことで障害者団体とも関りがあった。
ハローワークの資格取得通信教育を受けたが途中で辞めちゃった。

ボランティアでもするかな、と思い、マンションに古新聞回収に来ていた風の子のチラシを見て行った。初めて行った時に「何かすることないですか?」といったら「木曜日にお風呂介助をして」といわれ「資格もないけれど…」と答えたが「やる気があれば大丈夫」といわれ、翌日が木曜日。翌日指定された7時に行ってお風呂介助をした。食事の介助もしてビールを飲んだ。やった、あんなすごい障害のある人の介助をした!と大興奮した。


 「やる気さえあれば」という言葉はとても大事だ。その考え方を裏付ける制度が、全身性介護人派遣制度、他人介護加算、ヘルパーみなし資格だ。その思想をアピールするために、「全国無資格無認可スーパーマルチ介助者協会設立準備会代表世話人」と名のることにした。

 お前の名前は大器晩成型だと親から言われた。今年6回目の年男。父親は102歳まで生きた、と考えると今やっと人生の4分の3。これからが晩成だ!と思っている。


が、ネットで検索したら大器晩成とは要件を満たしたエリートな人しかなれない!と心が折れたところです。


 報告を終わり、恒例の橋本さんワンポイント手話講座。
 「1月1日、橋本家の一階で克己君とお母さんと二人で、お餅を食べてお酒を飲みました。新年おめでとうございます。」


質疑応答

飯島さん:
年が近く、その時代を彷彿とさせた。聞いていて、よく生きてきたなあとおもった。やめたのは惜しかったね、たらればだけど。

大坂さん:本当にたらればだけれど、あの時は、一緒に汗を流した奴らじゃないコンサルの人に冷たく言われたのが頭にきた。

水島さん:自分も昔1965年頃、横浜の工場にいた。日産の下請けだった。日産は形は悪いけど性能が良い、トヨタは性能が悪くても見た目が良いから売れる。といわれていたのを思い出した。

大坂さん:あの当時、技術の日産といわれていたよね。

樋上さん:さっき、大坂さんの実家はお菓子屋さんですか?と聞いたのは、自分の実家はジーンズ屋だってこともあって羨ましかったんです。

大坂さん:覚えているのは駄菓子屋なのに駄菓子が店先にほとんどなくて、栗、サツマイモ、夏にはスイカ。当時一本杉通りを通ったジープがよくスイカを買いに来た。

樋上さん:福祉車両でオープンカーとか今後出てこないかねぇ?なんて話しているけれど、そういう福祉車両は今後でてきますかね?

大坂さん:たとえば吉原さんが乗っているように、個人で乗るのはもうあるかもしれない。いや、きっと有ると思う。けど金が高い。

日吉さん:結婚した相手の家業が解体屋だったので、よく日産とかトヨタとか行かされた。なんといってもトヨタって敷居が高かった。トヨタの車で行かないと駐車場に入れてもらえなかったから喧嘩もした。

大坂さん:トヨタだけじゃなくて、日産もそうだし、銀行系列なんかも、そういうのがあった。

黒田さん:自分が小さい頃にスーパーカーブームがあった。その頃はどうだった?

大坂さん:トヨタはそういうのはなかったが、個人的には興味があった。おそらく今でも、あれば1千万くらいの価値があるんじゃないかな。

樋上さん:トヨタの自動車でスーパーカーはないんですか。

大坂さん:コンセプトとしてそういう車は作っていない。作ったら売れるとは思うけれど。作れって言えば作ると思うけれど、私も最近レースを知らないけれど、プリウスとあのへん外車のスーパーカーと性能はどっちがいいかってなると、プリウスのほうがいいって話もある。


大坂さんが中大の3年生だったころ、私は医学部の運動から外れ、中大の学費値上げ反対闘争の応援のため、数ケ月泊まり込んでいたことがある。全学ストの現場などで、すれちがっていたかもしれない。また、大坂さんが大学時代を通して暮らしていたという駒込の曹洞宗の学生寮の先輩として、私の医学部の運動の後輩がいて親しくしていたことが後年大坂さんとの会話の中からわかり、大坂さんからそれを聞いた彼から電話が来たことがある。そのうち会おうという約束を果たせぬうちに亡くなってしまったが。

 もうひとつ、大坂さんとの接点は、私自身も70年代初め、飛び込みセールスをやっていたこと。「地域と障害ーしがらみを編み直す」(わらじの会編 現代書館 2010)には、「70年安保闘争から70年代前半を通して、筆者と連れ合いは都内のアパート10か所近くを、警察の監視を逃れるべく転々としてきた。」と書いたが、この間に2年余り不動産セールスをしたことがある。

 地方出身の高卒ということで働いたが、アパート周辺ではいつも監視を気にして緊張しているのが、ニュータウンへ出かけて飛び込み訪問をして主婦たちとおしゃべりしていると心がときほぐれて楽しく、結果として売り上げにもつながった記憶がある。大坂さんが、「超々ブラック企業だが魚を釣り上げた快感があった」というのと重なる。「商品を売るのではなく、自分を売るのだ」というセールス標語に示されるように、単に売買が成り立ったというだけでなく、人間と人間の関わりの中で自分が認められ、必要とされたと思わされてしまう。

 実際には、大坂さんが「超々ブラック企業」と評した販売現場だけでなく、生産現場でも「自動車絶望工場」と評された労働支配を進めることにより、「競争に勝ち残れる体制づくり」を進めてきたトヨタ、そしてマスコミを通した巨大な情報発信・操作を行ってきたトヨタが市場競争で優位に立ったということが、セールス社員個々人の意識では、自分が人間として認められたからトヨタ車が売れたと表象される。

と同時に、こうした矛盾をはらんだ労働現場を通して、私も大坂さんも得難い体験を重ね、それが現在の自分を成り立たせるひとつの要素にもなっていることも確かだと思う。

その矛盾を生きていた当時の大坂さんを照らし出したお客さんの一言が、いまも記憶に残る。
 「大坂さんは私としゃべる時よりも、会社のマネージャーとしゃべる時の方がていねいにしゃべっているね」

 たぶん、医療、教育、福祉など、対人サービスを行う労働のありようにも、これと似ているところがあるだろう。

 長くなりすぎたので、今回はこれで終わる。

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