労働差別と闘い解雇された30数年前-正木さんの語る共生のヒント



 1月17日(水)、この日は第3水曜なのでLunch Cafe どっこいしょと称して、仕事おこし懇談会inこしがやとタイアップしたランチイベントの日で、12:00から世一緒で懇談会メンバーのワーカーズコレクティブ・キッチンとまとのカレーが食べられる。そして、13:30からはいつもの水曜と同じで、すいごごカフェが開かれる。

 本日のゲストは正木敬徳さん。世一緒を運営するNPO法人障害者の職場参加をすすめる会の母体の一つであるわらじの会の初期に、越谷市のただ一人の知的障害担当ケースワーカーとして、家の奥に閉じこもらされていた障害者達を街へいざなったキーパーソンとして重要な役割を演じた。

 越谷市職員組合書記長として、とりわけ職場内の差別構造と向き合い市執行部と闘うさなかに、組合は大弾圧を受け、警察の装甲車に市役所が囲まれる。そして10名が逮捕・勾留され、幹部4名が解雇される。その4名の1人となり、ついに職場を失い、その後は自治労本部に引き取られて働いた後、定年退職する。

 わらじの会との縁も遠くなっていたが、一昨年夏から、世一緒で木曜夕方に開いた「たそがれ世一緒」の管理人・樋上秀さんの介護人を務めている。


 ゲストトークのタイトルは、「退職後の生活を語る」とさせていただいた。が、この日のトークは、生い立ちから始まり、越谷市ケースワーカーとしての仕事、職員組合の闘い、わらじの会との出会いなどを含め、貴重な歴史的証言を含んでいた。

 前回の大坂さんの時のように、筆者の秘書的介助者・奈っちゃんがメモをとってくれた(青字)ので、それと正木さん作成のレジュメ、そして筆者のメモ、コメントを加えて、報告する。

正木敬徳さん(たそがれ世一緒介護人)
『退職後の生活を語る』


〇退職後にはじめたというマジックショーからスタート。
楽しく盛り上がった。

〇生い立ち
昭和22年8月4日生。70歳。
埼玉県南埼玉郡大相模村大字東方に生まれる。5歳の時に父が病死し、母子家庭で育った。6歳上の兄と祖母、母の4人暮らし。農業をしていた。家には昭和38年まで電気が通っていなかった。

生まれ育った家は、今のレイクタウンの噴水のあたりに沈んでいる。慶応か明治の初めの生まれの祖父が東京で代言人(弁護士制度ができる前の職業)をしている時、「越谷に年貢が納められないような広い土地がある」と聞きつけて買ったのがきっかけ。
 
 電気が入っていないといっても、ホームレスのように住んでいたわけではなく、けっこう立派な家だった。
生まれたときにはかなり広い池が8つくらいあった。その周りに田んぼがあるようなところだった。田植えの時期になると腰のあたりまで水が来るくらいの悪い環境だったのは覚えている。
不幸にも父が5歳の時に亡くなり、母が電気のこと以前に子育てや田んぼのことを考えていたのでしょう、そのまま昭和38年まで暮した。母が通っていた教会の牧師さんほかが東電に働きかけてくれて、電気が通った。

〇職業
 越谷市役所に高校卒業後就職。懲戒免職になるまで15年勤務。福祉事務所に配属(生活保護の5年間ケースワーカー)。2年間福祉事務所を離れた後、7年間知的障害者のケースワーカー。
福祉大学に半年通ってケースワーカーの資格を取った。

 戦後の越谷市は2町8カ村が昭和29年に合併、昭和37年に日比谷線が北越谷まで来たことで人口が爆発的に増え、年間1万人以上増えた。役所もやることが増え、昭和40〜41年から市役所の役員をたくさん雇うようになった。市役所の給料はものすごく安かった。越谷市で3年働かないと、東京の給料に追いつかなかった。(東京に仕事に行く人が多かった。)

 市役所に入った年に自治労が初めて2時間のストライキを打つということで昭和41年に本部からきた。みんなピリピリしていたのをいまだに覚えている。30分だと1時間にみなされるが、29分のストライキだったら遅刻にみなされるということで29分でおわった。管理職以外はみんなストライキしていたとおもう。(上の写真は正木さんが入職した1965年(昭和40年)当時の市役所)

その後青年部の役員などをした。その頃に山下さんや水谷さんや平野さんと出会った。上の写真は1969年(昭和44年)に開設された市役所の新庁舎。

 越谷市役所職員労働組合青年部事務局長、執行部書記長(1年間専従)。昭和56年(1981年)1月、公務執行妨害・暴力行為等処罰に関する法律違反で9名の組合役員が埼玉県警に逮捕される。その年に市長によって4名が懲戒免職。そのうちの一人が自分だった。



 1980年、4市2町による東部清掃組合の新(第2)清掃工場を直営で行う方針を、管理者の越谷・島村市長が、とつぜん業者委託に転換することを提案し、理事会決定したことに対し、市職として委託を阻止するために闘っていた。組合としてストで闘い、焼却炉が止まり、運び込まれたごみが工場敷地にうずたかく積まれた。こうした緊迫した状況の中、他市町の首長は実質的直営の方向になっていたが、翌年の市長選を控えて組合の切り崩しを図る越谷市長だけが強硬に委託方針に固執していた(上の写真は東部清掃第一工場「リユース」)。



 そして11月末の夜、組合が市執行部と賃金確定交渉をしていた時の休憩時に、結婚式帰りの秘書課長が組合のビラをはがしているところに遭遇し、抗議し、もみあいになり、その数日後秘書課長が「2ケ月肋骨骨折」との診断書をとり警察に告訴した。そして、2ケ月後、警察による大量逮捕につながった。

 裁判では5年間闘争したが、そこでは難しさを感じた。一度起訴されると2%しか無罪になることはないと聞いた。法廷闘争の後、東京市ヶ谷の自治労本部(自治労共済)に引き取られる。主に自動車共済の損害査定部で仕事(地方で解決できない事案を弁護士さんと協議して解決にあたる)。最後の5年間公益法人自治労会館役員(常務理事)。

〇わらじの会(揺籃期)との出会い
 山下さんの自宅で1〜2回話した時に、学生運動の話を聞いた。「権威、権力の象徴の大学を解体すれば世の中が変わると思っていたのは幻想だった」東大が潰れても社会は変わらない、と思った、と。それで今ある谷中に医者が集まっって地域の運動をするんだ、と伺った覚えがある。

 山下さんたちと出会った当時、知的障害者のケースワーカーだった(市役所の中で1人だけ。身障のケースワーカーは複数いたが)が、自分でも何をしていいのかわからなかった。
 知的障害者の台帳はあったが、それだけでなにもされてなかった。
 ともかく知的障害者として台帳のある家庭に行ってみよう!と思い訪ねて行った。その時は妻が市役所で年金課で働いていた。昭和37年に国民皆年金の制度になったが25年かけないと受け取れない仕組み。しかし、国民皆年金とした以上、すでに60歳を超えた人はどうするか、となり、福祉年金という形で出した。知的障害者も中度から重度は診断書によって年金がもらえる、しかも5年間遡って支給されるということを知らせることが、私自身の動機づけになった(上の写真は、そうやって訪問した障害者達とわらじの会の冬合宿に参加して一緒に雪遊びする正木さん)。

 その時友達になったのが野沢啓祐さんで、家に行っていろんな話を聴いた。組合の中で差別の問題を敏感に考える人たちが組合の中心を担うようになった時で、「野沢さん、何したい?」と訊くと、「東京へ行きたい」と言うので、皆が一緒に車椅子を担いで電車に乗り、東京タワーに行ったりした。


上の写真は、わらじの会初期。野沢代表と介助する市職メンバーたち。



 このころ、山下、水谷、平野さんたちと出会った。以後はわらじの会の歴史です。



 上の写真は、わらじの会初期の例会風景。現在の中央市民会館の場所にあった福祉会館で。左端が正木さん。後列中央にお連れ合いも。


〇退職後
退職して今年の8月で11年目になる。
やってきたのは遊ぶことばっかり、カヤック三昧を二年間していた。海でもカヤックをしていた。そのシーカヤックの時に衝突し、「これをやりすぎたら死ぬなぁ」と思ってカヤックはやめた。
1年間は何もせずにいたのだけれど、スイミングスクールに週4回行っている。今7年目。そこで出会ったおばさんにマジックに誘われてマジックも始めた。マジックは6年やっているけれど、忘れちゃう。前は1万円札を宙に浮かすのもできたけれど、目が悪くなってできなくなった。



正木さんのお話の後、恒例の克己さんミニ手話講座です。
「2019年までに山田ミキさんと結婚して、山田克己になる。」
上の写真は、「結婚」という手話表現。


 
 ここからは主に筆者のコメントである。
 
 今回、正木さんにすいごごカフェのゲストトークをお願いするにあたって、「退職後の生活を語る」というタイトルを提示した。そして、「わらじの会初期にケースワーカーとして重度障害者達との出会いをつなぎ、退職後たそがれ世一緒の介護人として関わる日々の中から」という説明文を付けた。

 正木さんの生い立ちと市職の運動、そして解雇とその後の仕事や生活については、ふれなかった。あらためて問うたわけではないが、なんとなくそれらについて第三者に語ることをよしとしない雰囲気を、筆者が勝手に感じてしまっていたからだ。しかし、正木さんは今回それらについて語ってくれた。そのこと自体が、とても印象的だった。

 質疑応答の中でちょっとふれたのだが、正木さんは解雇され原職復帰の可能性がなくなった後、わらじの会で働くことはできないか、筆者に打診してくれた。当時はまったく制度がなく、プロを抱えるだけの財政的裏付けが皆無だったので、残念ながら申し出を受けることはできなかった。生まれ育った越谷で働き、人々と出会い、共に生きる地域を切り拓いてきた正木さんは、そうして「埼玉都民」となり、出会う機会もなくなった。

 正木さんが退職されて10年ほどたった一昨年の夏、たそがれ世一緒を立ち上げるにあたり声をかけたところ、長年正木家と同じ東越谷で独り暮らししてきた重度障害者・樋上さんの介護人としてならと受けていただき、毎週のように出会うことになった(上の写真)。そして、今回のすいごごカフェにつながった。


なお、正木さんが解雇されるに至った越谷市職の委託阻止闘争の経緯について、以下の資料がネット上にある「モップとダイヤルの叛乱」( 制作:竹の子ニュース編集部  協力: 越谷委託労働者組合、 自治労・越谷市職員組合、 埼玉学校委託労働者組合)のHPの末尾で 参照できる。

ちなみに、「モップとダイヤルの叛乱」そのものは、越谷市立病院の清掃と電話交換の委託業者の下で劣悪な労働条件を強いられてきた労働者たちが、正木さんをはじめとする越谷市職や委託労働者の横断的な組合の支援を得て立ち上がった過程を描いており、本としても出版された(上の写真)。

 すいごごカフェで正木さんは、非正規雇用労働が4割になり、政府が「働き方改革」を叫ぶ今日の状況にふれながら、1981年当時をふりかえり、あの時の自分たちはこういう流れと闘っていたんだなと思いますねとつぶやいた。当時はまだ非正規労働は少なく、圧倒的多数派である正規労働者の組合の中には非正規労働者の存在は意識化されていなかった。非正規労働者は80年代を通して増え続け、1990年になって初めて2割を超えた。労働現場の差別構造と向き合って共に闘った越谷市職は、まさに時代を先取りしていたといえる。



<資 料>
組合つぶしをはねのけて  刑事弾圧・首切り処分撤回闘争の記録 ( 自治労越谷市職労反弾圧現地闘争本部  自治労越谷市職員組合)

 
http://www2.plala.or.jp/kokyomnkn/mop/honbun.htm#プロ-1

 この資料の中に、東部清掃工場に関するいくつかの確認書が紹介されている。

1.覚書
 1978年11月18日に行なわれた市立病院問題に関する交渉の際に、ひき起こされた事態に関して以下のとおり覚書をとりかわす。
                     記
1、甲は、誠意をもって団体交渉(助役交渉)に臨んでいた労使双方の姿勢を無視するが如き行為(交渉の隣室においての深堀秘書課長の盗聴行為)をしたことについて、心から陳謝する。
2、甲は、今後の労使関係の正常化について努力し今後一切このような行為をしないよう当事者に対し、適正な処置を講ずる。
3、甲は、問題のテープを責任をもって処分する.
4、甲乙双方は、本件に関して当事者間に附随的に発生した事実に関して法的措置等の手続は一切とらない。また、責任は追求しないし不問とする。
5、この覚書は、甲乙双方が責任をもって管理し、内外ともに公表しない。

1978年11月19日
    甲 越谷市長 島村慎市郎
   乙 自治労越谷市職 執行委員長 久保 正明

2.確認書

東部清掃組合第二工場の民間下請に関する本日の団体交渉で下記のことを確認した。
                       記
1、1980年9月24日の理事会で、従来の方針を突然変更し、第二清掃工場の民間委託を決定したところであるが、従来から清掃業務は直営化が正しいとの認識に立ってきているので、この決定については、東部清掃組合事務局一同反対である。
 具体的理由として、
(1)清掃業務は自治団体の固有の事務であること。
(2)市職員組合との確認書があり、これは相互に守るべきものであること。
(3)第二工場建設に伴い、地元からの、職員採用についての経過があること。
(4)直営方針に従い議会答弁してきた経過からみて、理事会決定は議会軽視につながること。
(5)民間委託は、職業安定法違反(人出し稼業)になり、技術的に見ても直営方式が良いこと。
2、民間委託反対の要望書を東部清掃事務局管理職連名で東部清掃管理者及び各理事全員に提出する。
3、委託を実行してゆくための一切の事務手続については、これを凍結する。
4、今井草加市長及び鈴木八潮市長と、市職員組合との話し合いの場を今月(10月)中に設定する。

1980年10月2日
東部清掃組合
助役 中島与兵衝
事務局長 会田智彦
技監 下平一郎
管理課長 植竹佐吉
施設課長 角田義久
越谷市職員組合
執行委員長 佐々木 浩
越谷市職現業評議会
議長 川島勇次
 



 もうひとつ正木さんがすいごごカフェでくりかえし口にしていたのが、自分たちが警察に逮捕された時、わらじの会の障害者達が「私たちの手足を返してくれ」と市長に訴えたことを知り、うれしかったということ。上はそのニュースを報じた当時の新聞。

 1980年といえば「親と子のスウェーデン福祉体験旅行」から夏に戻って、翌年にはスウェーデンの障害者達を日本に招きたいと考え、またそれまでにスウェーデンの友人たちから学んだ「権利とは与えられるものではなく、闘い取るもの」、「行政になんとかしろと要求するよりも、まず自分たちが地域で暮らし方、働き方を具体的な形で示し、それを行政に後押しさせる」を導きの糸として、日常的に一緒に街に出て、出会った人々の手を借りながら、街を変えてゆこうと試み始めた時だった。その足をすくうように市職の顔なじみの人々が一斉に奪われることは、見過ごしにできなかった。
上の写真は1981年12月、スウェーデンRBUを埼玉に迎えて交流した時、東松山の丸木美術館での原爆の図鑑賞ともちつきに同行した正木さん(左端)。

 筆者のブログらしく長くなってしまった。正木さんの語りにいざなわれ、非正規労働の問題についてもふれた。この問題は、障害者雇用が伸びたといわれるが伸びた実態は非正規労働であることにもからんでくる。

 就労支援は事業主支援も当然含んでくるが、その目的は事業主も労働者もそれぞれの実情や思い、そして権利ををつき合わせながら、着地点を見出してゆくという、地域共生へ向けての支援といえよう。その中には、正規雇用の労働者と非正規の労働者との格差構造をたえず見直してゆくことも含まれるだろう。

 さらに視野を広げれば、このことは、労働者が経営者でもある協同組合的な労働においても、さらには労働という枠組みを離れて、共に生きるための支援の問題に関わってくるのではないか。

 そんなことを考えさせてくれた正木さんに感謝!

 
 

BIGLOBEニュースロゴ

ニュースをもっと見る

最近の画像付き記事