なんでもやってくることで形になった―巽さん親子のまちびらき


 今回は2月7日に開催した世一緒すいごごカフェのゲスト、巽孝子さん・優子さん親子のトークを報告する。タイトルは「知的障害にも全身性」。

―全国でただ一つの知的障害者介護人派遣事業―

 タイトルの意味は、全身性障害者に介護人派遣事業があるのなら、知的障害者にも介護人派遣事業をということ。
 すいごごカフェのチラシでは、「『さっこさんズルイ』との娘・優子さんの一言から、越谷市に全身性障害者介護人派遣事業を制度化させてきた巽孝子さん。ワーコレの店・こぶくろの経緯も含め。」とある。

 かって東京都に始まり、大阪府・市がこれに次ぎ、三番目(1990年)に札幌市と埼玉県が実施した全身性障害者介護人派遣事業は、いま埼玉県にしか存在しない。障害者の自立生活にとって重要な、「そばにいて、一緒に動きながら、つきあいを重ねながら介助関係をはぐくんでゆく」といった関りが可能な制度としては、現在の総合支援法では「重度訪問介護」がある。

 だが、総合支援法の介護はずべて障害福祉サービス事業所からのヘルパー派遣という形式を必要とする。それに対して、介護人派遣事業は、原則として事業所を介在させず、障害者と介護人との当人同士が直接に合意することにより介助を行える。もちろん初めに障害者も介護人も市に登録しておく必要はあり、それによって、介助が終わった後、毎月の実績報告を両者が市に出すことにより、市から介護人に手当が支給される。

 かって知的障害者ガイドヘルパーが、全国で大阪府下のみにあったが、いまは消滅し、全国でも越谷市のみが知的障害者介護人派遣事業を実施している。この事業成立の立役者が、巽さん親子だった。

 以下はこの日のすいごごカフェのやりとりを、筆者の秘書的介助者・奈っちゃんがまとめてくれたもの。




娘(介護護者募集のチラシを見せながら)「ぱたぱた優子です。こういう活動をしています。よろしくお願いします。」

母「こんな感じです。喋るのが苦手、分かっていることもある・伝えていることは理解できるんだけれど、伝えるというのが難しい。ある程度一緒に生活をしている人は分かるけれど、初めての人にはなかなか伝わらない。慣れてもらうのが大事になってくる。」



―介護者募集のチラシに沿って−
〇チラシには活動なんかが載っている

(母「月曜日は?―」娘「――」母「――」という形式で話をすすめている。)


火曜日−約30年前にこちらに引っ越してきて、高校2年生の後半くらいにわらじの会にと出会い、卒業してからわらじの会に入れてもらった。それから1〜2ねんくらいでぽぽんたという活動が始まった。優子は最初から今までずっと参加している。ぽぽんたというのは自立生活をしている先輩がリーダーになって色々な経験を深めていくという活動(上の写真は1999年のぽぽんた活動)。

夜は月刊わらじの編集作業に参加している。約25年まえくらいかな?黄色い部屋で「絶対に帰らない!」という優子さんの発言から山下さんが「じゃあ送っていくからいいよ」と言ってくださったところから編集作業に参加するようになった。態度が大きいので編集長と呼ばれるようになって、それが本人も気に入ったみたい。(上の写真は、原稿依頼の電話をする巽編集長)
先日書初めをした際に優子は「編集長」と答えたらしい。

金曜日−ぶあくは雇用促進法で助成金をいただいていている。今は場所を変えて、かがし座と駅前ショップでおこなっている。

土日−土日は家でテレビを見たり、出かけている



 上の写真は知的障害者自身の国際組織「ピープルファースト」がわらじの会を訪れ交流した時のようす。

〇優子さんについて
『いいところ』とてもいいようにかいてくれている。『かいぜんしてほしいところ』こっちが90%です。いいところの方は10%
母「しょっちゅう怒ってる。」

娘「大丈夫よ、わかってます。」


上の写真は、ヨーロッパのピープルファーストとの国際交流シンポジウムで日々の活動を語る優子さん。


―資料に沿って―


 ぽぽんた(何人かのグループで参加する)に参加していた際に大きく2回、迷子になった。電車で迷子だと終電にならないとみつからない、と山下さんに言われた。
 だが、偶然隣に座ったおじさんが自分の子もダウン症だったことで異変に気が付いてくれて、優子が名前と電話番号の書いた財布をみせたらしく、電話番号から近所だとわかり南越谷で一緒に降りてくれた。

 あの時は本当にびっくりして心配したけれど…後に分かったのはしっかりお昼頃にコンビニで昼食をしっかり買っていた。感心した。「ぽぽんたはもう行かないで」という気持ちと「こんなに力がついたんだな」という感動があった。


 次の回の時に母は止めたが一人でさっさと歩いて行った。あとをつけてみたら、送っていくときの嫌々の歩き方とは違う歩き方で本当にすたすたと向かっていてびっくりした。それからは娘自身が自信をつけたのか「だめ!」といっても何が何でも行きたい活動に参加するようになった。

 上の写真は、今日もせんげん台駅前に集まって、どこかの街に出てゆこうとしているぽぽんたの面々。


 資料の「優子の手紙」にもあるのだけれど、いままで平仮名はある程度かけたが文章はできないと思いこんでいたら、その日の朝食卓にペタッと貼ってあった。なんて書いたの?と聞いたら「お父さん、お母さん、ゆきちゃん、いちのせさんと、とまりします」と書いてあった。びっくり仰天だった。迷子になったのに怖がらずに、こういうことがしょっちゅうあったし、思いもよらぬことをやってのけることもよくあった。ショックもあったが、私が娘を囲って抱え込んでいちゃ駄目だったんだなとおもい、皆さんの中で育ててもらうのが大切と思った。本人も「別々です」が口癖だった。それまでは人手が足りないだろう、と思って親もついて行っていたが本人は「別々です」(母はあっちに行ってて)といっていた。手紙は後にも先にもそれっきり。いまだにとってある。

わらじの会に入れていただいて、娘はいきいきと過ごしている。

―知的障害者にも全身性を―
…迷子になって、活動中に「さっこさんずるい」…

当時の優子はあいさんという人が大好きで、ずっと一緒にいたかった。が幸子さんという人(車椅子ユーザー)の介護者だった。それで一緒に居られてずるいと思ったみたい。

その時にふと「たしかに優子には全身性もないもんなあ」とおもい、迷子になったこともあって全身性が欲しいなと思った。

知的も身体も手帳を持っていたので当然取れると思ったのに、だめですと言われた。

山本ひとみさんと2人で市役所にお願いしに行った。山下さんにアドバイスをもらって、資料などを作ればいいんだ、となった。

当時、ホームヘルパー制度(高齢者むけ)が障害者もつかえるということで使った。介護料は収入に応じて自己負担だった。とにかく使ってみなきゃとおもって2年近く使った。総額いくらになったというのを表にして市役所に持って行った。

大阪の方ではもう制度ができていたので優子と2人で見学しに行って書類にまとめて市役所に提出した。



1か月96時間、親の収入関係なしに本人の収入によって介護料が決まる、今の全身性と全く同じものが越谷市にできた。…よかった(上の画像は越谷市HPより)。

 先日のピープルファーストの大会も2泊3日で介護者と一緒に行った。96時間内だったら一日何時間使ってもいいし、資格がなくても優子を知っている人ならできるのでとても使いやすい。96時間目一杯使うかというとそうではなく必要な時に使っている。自宅では使えない。居宅介護という制度もあるが、優子は使っていない。(
下の写真も,火曜夜の黄色い部屋での月刊わらじ編集作業中の原稿依頼電話かけシーン。もちろん編集作業への参加にも、乳的障害者介護人派遣事業を活用している。)






―ここで橋本さん手話講座―



「かつみくんが先生をやりますよ」


「橋本家の2階。朝起きて、時計を見て時間が何時かな?と見たら午前8時でした。」

「お疲れ様でした」




―質疑応答―


母「優子さん何かある?」
娘「明日はべしみで製本作業でこれません」
母「明日じゃなくて製本作業は17日でしょう?優子はあたまでおもっている日と口に出している日が違ったりする。行っていることは伝わっているんだけど、伝えるのがね。」
山下さん「うんとこしょの活動もあるよね」
山崎さん「本人の中では整理されているのかもね」

内野さん「知的介護人でうちの娘も使わせてもらっている。巽さんたちの努力のおかげでスムーズに96時間とらせていただいた。手づくり班で活動していた時の、コンビニで買い物したのを覚えていたおかげであおいそらに行って3〜4年してから男の人に声をかけられた時に娘は越谷の本局から逃げちゃって、その当時使っていた覚えていたせんげん台のコンビニまで行っていたことがあった。手づくり班でそこのコンビニを使っていたおかげであのコンビニから自力で歩いて帰ってきた。」

山アさん「優子さんとはずいぶん昔に知り合いました。ぽぽんたでふれあいの舞台に出るってのでドラムをたたいている優子さんに出会ったのが初めて。当時実行委員として舞台関係のことをしていて、とものさんが実行委員をしていて、ぽぽんたが出演するといって…楽器は前日に持ってくるとかいろいろあって、よく覚えているのは藤崎さんととものさんと、優子さんの鮮やかなドラムが印象的で、リズム感よくたのしそうにやっているのを見て記憶にある。その時会話はなかった。地適事業であったのがその次。こばと館の講座で、実習で来た優子さんにこの歌知ってる?なんて誘いかけたらが身振りと手ぶりが見事だった。音楽が好きなんだね。他の人に実習なのにとは言われたけれど、私は音楽がすきなんだな、と感心した。」

母「小学校の時にすごく音楽の好きな先生がいて、教室にドラムをおいて子どもに好きにたたかせていた。授業中はやらない、とかのきまりはあったけれど、放課後も歌の練習をしてくれるような先生で、その先生と出会ってから、家でその先生の真似をしてみたり音楽を楽しんでいた。恰好を真似したりとか、そういうのがうまい」

山アさん「ドラムが本当にリズム感よく、上手だった。」


母「わらじの会にきて、自分に障がいがないのにこんなに必死に活動している人がいるんだ、って感動した。いままでいろんなことに閉ざされていたのが、いろんな障害者と接するうちにすごいなあと学ぶことが多くかった。うまく言葉では表せないけれど、伝えたいのはそこが大きい。これからも死ぬまでわらじで活動していきたいなあと思っています。」

山アさん「優子さんのドラムを見て、うちの娘もこれくらい逞しく力強く、自分をうまく表現できたらどれほどいいだろう、と思ったのが事実。親がいないとダメなんだけど、いない場面も必要って思った。いいなぁ、羨ましいなあって。ずっと優子さんの隠れファンなんです。」

佐藤さん「いつも優子さんに会うと『あしはどう?』って心配してくれる。きっと他の人のこともみんな気にしてくれているんだろうなって。」
友のさん「わたしも『介護者誰?』って聞いてくれる。」
佐藤さん「気にしてくれてるんだね。それぞれにかける言葉があるんだね。」
母「うるさいっておもいません?うちではいつも『ごはんどうします?』ってうるさいの。」
(一同、笑う)



日吉さん「以前、優子さんが荷物をぜんぶ広げちゃって『帰るのにいいの?』なんてあっけに取られているうちにあっという間に片づけて『ほら、いくよ』なんて言われちゃって。みんな笑ったことがあったんです。」
母「そうなんです。すぐお店みたいに広げちゃう。…もうやだ」(一同、笑う)

母「本人の中で、予定があって、今日も『ブランチだから』とずっと言っていた。」
山下さん「『おかく』にブランチに行ってもらおう」
娘「そう。ブランチ。」

山下さん「小学校に上がる前はどうでしたか?」
母「どうしようかどうしようかってそればっかり考えていたが、新聞でダウン症に薬があるって書いてあって大阪の小児医療センターに行けばもらえるって書いてあったから行ったら先生に『出せるけど薬にたよろうなんて思っちゃいけない』とかいわれて。『仲間のいる会に参加してみたら?』と薬もくれたけど、その会を紹介してもらった。薬はほぼ使わなかった。せんじ薬みたいな。栄養を大量に与えたらましになる、みたいなやつ。私も治るとはおもってなかった。集まりに行って月に一回バスと電車で天王寺まで行っていた。その会にいた人たちが幼稚園にいけるってことになって嬉しかったけれど、他の親たちから反対運動なんかも起きちゃって。


 そんな中、一人の子が行方不明になって川に落ちてなくなってしまった。そこから近くの地元の幼稚園に行こうよという運動を始めた。保育所運動。幼児教室というのがあった。障害のある人たちを集めて私たちも保育所に強く要望したら入れるようになった。3歳の時に保育所に入れた。小学校にも入学運動して、優子が入る頃には全員が要望すれば普通学級に入れるようになった。市からはタクシー代出すから養護学校に行けって言われたりもしたけど嫌だって言って。」



母「参観日に見に行ったら、朝の体操の時間だった。まだ立てなかったけれどハイハイして壁まで行って壁に寄りかかったら自力で立てたから、にこにこして。一生懸命な姿が見れた。その頃はかわいかったのよ!それで幼児教室はいかなく、保育所だけにして。だから通常学級、小学校に行くのも迷いがなかった。なんでもやってくることで形になった。わらじの会にきてほんとうによかった。」(上の写真は、2012年埼玉で開かれた「みんな一緒だ!サイタマ「障害児」の高校進学を実現する全国交流集会」で、小学校当時の先生と再会した優子さん)



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