〇〇なバリアフリーと見えないバリア 交通アクセス埼玉第2期への道


1991年から毎年行ってきた「交通アクセス埼玉行動」が、4月29日、川口で開催された。バリアフリー社会の広がりの中、かって全国各地で行われたこうした取り組みが姿を消し、わが埼玉も2017年度の行動を年度内にやれず、この4月になってやっと開いたという形。

 目についた交通アクセス埼玉の新しい幟。なんと手縫いである。気を引き締め直して行動を継続するぞという思いを込めて作られたのか。

1.よみがえった半世紀前の自主調整会議



 今回、事前準備の会議にも限られた顔ぶれしか集まらず、地元川口からの参加も少なかった。これまでは現地の団体が県内各地からの人々を迎えて、班編成や行動スケジュールを提起するのが原則だったが、そうした態勢が取れなかったため、事務局としては当初、参集してきたグループごとにいくつかのコースに振り分けることを提起した。それに対して、参加者たちから「知ってる顔ぶればかりで回ったって面白くない。せっかくだから、ふだん顔を合わせてない同士が一緒になって動けるような組み合せにしたい。」という声が上がり、自発的に寄り合った人々により、チーム編成が行われた(上の写真)。

 その様子を見ていて、ふいに半世紀余り前の情景がよみかえった。

 上は1963年12月の医歯大新聞から。私が10年間在籍し、除籍となった大学の学生新聞。

「盛り上がるインターン闘争 4、5日に自主調整 1日に団交」という見出し。

 かって医師国家試験は医学部を卒業した後1年間、国が決めた実地修練病院でのインターンを終了しなければ受けられなかった。そのため実地研修病院の中でも人気のある病院は修練生を選び放題であり、医師不足の病院では無給・無権利・無資格の労働力として酷使されるといった実態があった。このインターン制度を変える必要性は、大学や医師会からも以前から問題提起されていたが、当事者である医学生たちは単に訴えるだけでなく、より実効性のある行動を追求してきた。

 その最初の到達点が、見出しにある「自主調整」。全国の医学部卒業予定者が、インターンを行うにあたり、バラバラに実地修練病院側(国公立病院、米軍病院、民間病院、大学病院)に選ばれるのでなく、予め自分たちの側で調整を行って、窓口を一つにしてすべての病院と交渉するということ。いわば全国的なユニオンショップか。

 その初めての自主調整会議が二日間にわたって東京で行われ、当時医学部の1年生だった私は、何が何だかわからないままに、旅館の大広間にで行なわれたその会議にいた。夜を徹して行われ、全国から集まった代表たちは、地元とくりかえし電話連絡をとりながら、必死になって調整を行っていた。だんだん調整が進み、夜も更けてゆき、私もうとうとしながら様子を見守った。明け方にはみな寝込んでしまい、4,5人で最後の詰めをしていた。そのシーンが今、川口駅前でよみがえったのだ。

 記事の文面に私が赤い線を引いたところが雰囲気をよく伝えている。

「自然発生的に会議が始まり」、「悲喜こもごもの光景がみられた」、「互いの不信感や疑惑をとりのぞいて」、「二晩一睡もしなかった執行部、事務局員も代議員もイ闘争の成功を胸に秘めて未明の朝もやに全国に帰っていった。」

 さて、川口駅前の「自然発生的な」「自主調整」を経て、各グループはそれぞれの方向に散っていった。私たちのグループは、芝公民館での報告集会の終わり近くになってようやく到着したため、他グループの報告は聞けなかった。
2.「〇〇なバリアフリー」について考えた

 

 ただ、今回の行動の少し前から、SNSを利用して、「○○なバリアフリー」を発信し合おうという呼びかけがあり、#2017埼玉アクセス というハッシュタグによりそれらが通覧できるという試みが行われてきた。この日のさまざまな事例も見られるので、おすすめしたい。

 あの津久井やまゆり園事件がこの福祉的な支援が拡充した社会で起こったことに示されるように、かっての青い芝が「あってはならない存在」、「障害者殺しの思想」と断じた社会のありようは、本質的には変わっていない。

 しかし、そのことを前提として、そうした社会のありようを変えるべく、数えきれない取り組みがなされてきたことは確かであり、私たちはいまそうした取り組みの成果を活かしながら生きている。

 山登りで言えば、中腹にいることは確かなのだ。しかし、道はたくさんあり、時には崖っぷちに導かれたり、谷に降ろされてしまったり、藪の中で道が途絶えてしまったりすることもある。かと思えば、不意にお花畑に出会ったり、眺望のよい休み場所で一息つくことができたりもする。

 社会を変えようとする取り組みも、そんなさまざまな要素をはらんでいるのだと見極めるべきだろう。そして、迷ったときにはもと来た道を引き返してみる。これは山登りの鉄則だ。その意味でならば、筆者のような老人の昔語りも、時には意味があると思っている。

 そして、いちばん大事なことは、「いま ここ」。過去の経験も、未来の展望も、現在この場に居合わせた者同士の関わり合いの中で参照したり、検証し合ってこそ、共に世界を創ることができる。かって、障害者達が施設や家の奥から出て「街に出る」行動をあちこちで繰り広げた70年代は、その出発点だった。

上は 「○○なバリアフリー」の一例。「ちょっと怖いバリアフリー」とある。「遅延で南越谷で乗る乗らないの押し問答!!」というのは、鉄道駅で駅員が業務として介助を行うまでにバリアフリーが公共化されてきたのだが、そのために交通事業者として業務マニュアルを策定し、駅員に順守を義務付けた結果、「いまここ」の判断が難しくなり、画一的に「下車駅の対応ができる時間まで待ってください」ということになる。それが、差別解消法にいう「合理的な配慮」であり、それ以上は「過重な負担」とみなしての対応だ。

 いっぽう、「降りた川口駅は降りた途端に傾斜が!ちょっと怖いです。」とあるのは、感想であり、駅に抗議したとは書かれていない。現実のバリアフリーにはさまざまな形があり、怖いこともありながら街に出てゆくという思いがにじんでいる。バリアフリーを水戸黄門の印籠のようにかざしたりするのではなく、日常の風景の中で伝え合いたいということだろう。

3.障害者3人の暮らしの場から


 ところで、今回は川口市で一人暮らししている重度障害者3名が自宅に案内し、暮らしぶりを見せてくれた。上の写真は、電動車いす使用の八木井さんの家で、すべてが小さく狭い。

 しかし一緒に中に入って見ると、家の中では這って移動する八木井さん(後姿)は、狭いからこそ家具や手すりを手掛かりに動きやすいのだということがわかる。

 40年近く前、やはり川口で老母を介護しながら車いすで暮らしていた仲沢さんの家を訪問したスウェーデンRBUの友人たちは、「私のバスルームくらいの所で二人が暮らしているとは」と驚いていたが、仲沢さんも家の中は這っていた。狭いからこその自前のバリアフリーということもあるのだ。


 対照的に、最近一人暮らしを始めた新相さん(中央車椅子)のアパートは、屋内でも車椅子で移動できるよう専門機関の助言を得て段差をていねいに解消している。

上も新相さん宅。


 筆者が参加したグループは、もう40年以上前からつきあいのある増田さんの案内で彼のアパートへ。前に来た時から10数年たったか、アパートは建て直されていた。でも、20数年前に、夜遅く彼をリフト車で送って行き、後ろのドアをバタンと閉めたら、抗争している組の殴り込みとまちがえて血相変えて飛び出してきた組員の人の家もちゃんとあった。アパートの前の畑を耕していた年配の女性に、増田さんは挨拶していた。前はなかったスロープが、右端にできていた。

 数年前まで家の中を這って暮らしていた増田さんは、ドアによりかかって電動車椅子に移乗しようとしていてよろけ、ドアの前の鉄柱に頭を激しくぶつけ緊急入院した。それ以来、食事やトイレや寝起きが自分ではできなくなり、重度訪問介護のヘルパーを利用して暮らしを立てている。その鉄柱を、増田さんは荒ぶる神に対するように、あらたまった口調で紹介する。

4.見えるバリアフリーと見えないバリアの狭間を生きる


 今日、増田さんはヘルパー同行で、筆者らの参加するグループのリーダーとして、イトーヨーカドー等の入ったショッピングモールへとグループを導き、みんなでフードコートで昼食をとった。その時、たまたまショッピングに来ていた旧知の女性障害者が増田さんのヘルパーの所へ来てトイレ介助を頼んだ。ヘルパーは事業所から増田さんの介助を指示されてここに来ているので、できないと断った。グループの中のほかの女性がトイレ介助をした。ヘルパーは、仕事の時じゃなければいくらでもやるのにと悔しさをもらした。

 福祉的支援やバリアフリーが拡がるということは、それらを仕事として担う人々、そして彼らを雇い事業として展開する組織が増えることにつながる。 その場合、業務の枠組みや服務規程といったこと、さらにはその仕事の裏付けとなる公的な制度の規定などを定めなければならず、実際の現場でも常にこれらに照らして適切な運用がされているか、チェックが必要となる。

 筆者はヘルパーが断ったのは、結果として妥当な判断だったと思う。グループには、彼女以外に数名の女性介助者がおり、彼らはヘルパーとしてではなく参加していたのだから。

 そして、ヘルパーが悔しさを絞り出すように言葉を発したことを忘れられない。各々がこの矛盾を引き裂かれながら生きている、そうした人間的な悩みが出会う場をつくってゆきたい。


 いずれにせよ、「見えるバリアフリー」はその裏側に「見えないバリア」をひきずっていることに着目しておく必要がある。

 かってまだ少し視えていた橋本画伯は、就学免除で口話はもちろん手話も文字もさまざまな事物の名も知らないまま19歳で街に初めて出たが、彼が階段の下に車椅子でじっとしているだけで、通りがかりの人々が寄ってきて、階段を上げ、改札口をかついで越え、階段を下ろして電車に乗せた。当時6千世帯と言われた武里団地の住民の半数は、画伯やその仲間を駅で担いだ経験があるといわれたほどである。
 「見えるバリア」を間において、バリアの向う側とこちら側の人々が出会い、一緒に動き、考えた時代があった。

 いま「見えるバリアフリー」が拡がり、その対となって「見えないバリアー」も拡がっている。したがって、「バリアの向う側」と「こちら側」が向き合う場面も、いたるところに生まれている。しかし、あまりにもそうした場面が多いため、一つ一つの出会いを確認し、一緒に動き、考える機会を逸しているのがいまの状況ではないか。

 「○○のバリアフリー」もそうした気づきへの一歩として受け止めたい。

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