魯山人の美意識L 内貴清兵衛の芸術サロン

街には『カチューシャ』の歌が流れていた。
福田房次郎・大観は大正三年の春ころから四年の夏まで、生涯を通じて物心両面で燕臺とともに大きくな影響を受けた内貴清兵衛のもとに通うこととなった。
                            シジュウガラ

清兵衛の父内貴甚三郎(一八四八〜一九二六)は、もともと近江商人の出で、四五○坪の邸宅をかまえ、京都市東洞院御池上船屋町に関東織物京染呉服問屋『銭清』を経営し、明治三十一年、初代民選京都市長に公選されている。
明治三十一年十月から三十七年十月までの任期中に京都之社寺復興に尽力し、下水事業、道路拡張など交通網を整備し観光都市・京都の基礎を造ったことでも有名で、任期満了後は衆議院議員を務めた。

内貴甚三郎の長男として生れた清兵衛の幼名は清之助。法政大学を卒業後、家業の呉服問屋を継ぐが、自らは大綱を握るにとどめて、弟に家業を任せた。
                           内貴清兵衛(1989年「太陽」より)

世の中の情勢や見通しも的確に判断でき、土地の将来性に着眼し、洛北の松ヶ崎の林の中に滝と池のある別荘を設けたり、城南に広大な田畑宅地を所有した。
島津製作所・日本電池・日本新薬・京都織物など京都の成長企業の役員を勤めていた。

                            椛とんぼ

内貴清兵衛はその傍ら「重要美術品・道成寺縁起絵巻」「重要美術品・春日曼荼羅」をはじめ、飛鳥、藤原、天平の仏教美術をはじめ、東山の蒔絵、浮世絵や古陶磁を好んで蒐集していた。
内貴は言いたい放題、自由奔放に議論をすることを好んだ。富田渓仙、速水御舟、小村大雲や榊原紫峰など「野性味ある面白い人物」と思えば無一文の貧乏芸術家の卵を受け入れ、可愛がった。
渓仙は紹介も無しで内貴の元に現れた。女中は乞食と間違えたほどの身なり、使い古した下駄に汚い衣服に汚れた長髪、内貴はこの渓仙をいきなり二階に通させ、客人らしい扱いをしたのだ。
地位や身分を重んじ因習や伝統にやかましい京都では、破格の人であった。
それゆえ古美術商が集まるだけではなく、竹内栖鳳門下の土田麦僊ほか、富田渓仙、速水御舟、小村大雲や榊原紫峰、小茂田青樹、村上華岳など多くの画家たちも内貴の松ヶ崎山荘に月に一回、互いに習作などを持ちよって集まってきた。
芸術家たちはその話の端々から、「芸術家としての知性や薀蓄」を学びとり、またある時には彼らを祇園で遊ばせて作家同士の懇親を深めさせた。
                            ツバメの初飛来 

内貴の館では客の出入りによって庭の手入れをゆきとどかせることはもちろん、古美術品の出し入れが頻繁に行われ、それに触れる機会も多く、知らず知らずのうちに鑑識眼を養うこととなった。
しかも、多くの天才芸術家が清兵衛のところへ集まってきては芸術議論に花を咲かせる。
これらはおおいに大観の刺激になったはずだ。
すでに大観の書や篆刻をみた内貴はその非凡さを認めていた。
渓仙から仙崖の自由奔放な自由さ面白さを知った内貴は、良寛の書を愛するものの書家の書を極度に嫌っていた。
それゆえ大観の書をみて、
「君のは技巧に走りすぎるんや。そんなもん芸術とはおもえまへん。おもろうない」と意見した。
この一言は、技巧が芸術ではないことを示唆している。

この言葉によって自由闊達な創造を駆り立てられた大観は、
美術の根本は「鑑賞の態度」であることを教えられ、これが魯山人芸術の柱となっていくのである。
                                現在の「八百三」 
                               刻字看板『柚味噌』 
栖鳳の雅印を篆刻したことで、大観は東西有名画伯の雅印を独占する売れっ子となっていった。
さらに内貴の紹介によって大観が彫った彫琢看板の依頼主は裕福で有名な老舗ばかりである。

姉小路通東洞院の八百三『柚味噌』の他、四条畷の『平安画房』、寺町四条の『たね半』、寺町二条の『ごしきまめ』、蛸薬師烏丸の『土井撰美堂』、富小路六角の『藤田団扇堂』、そして中立売堀川にある『御水引老舗』(大正九年)、古美術商の『寶石堂』などであった。
大観は仕事に没頭するため堺町六角から洛北清水寺「子安の塔」の傍らにある泰産寺の二階を内貴の紹介で借りた。
                                 子安の塔
泰産寺は聖武天皇御建立・光明皇后御願所という。高台にある泰産寺は松林に囲まれ、寺の二階からは眼下に京都の街が臨める。あけ放した縁の目前に見える三重塔は子安塔といい、この塔は一六三三年に建立され、現在重要文化財となっているものだ。晩秋には、真っ赤な紅葉の谷越えに清水の舞台がのぞめて壮観そのもの。
                              泰産寺から清水寺を望む

ここは篆刻や書に精進するには絶好の地だが、人気はなく、住むには不便で寂しい所だった。
しかし、この俗塵を離れた山奥が気に入った大観は、ここで篆刻や揮毫の仕事をする基点とすることにした。
ここから清水寺の門前を横切り、三年坂を下って街に降り、東山道を上り、高野川を渡って時々、松ヶ崎の内貴のもとに通っていた。
泰産寺には「萬松閣」と彫り上げ、寺へ寄贈している。

五条大橋から五条坂を上ると清水の陶工の家々が古風に構えていた。
それぞれ旧幕藩時代の名残があり、南に清水六兵衛、高橋道八、清風与平、川瀬竹春。
北に三浦竹泉、翠壺、道仙、文斎の窯がある。
すでに帝室技芸員の清風家は黒光りする文化財にしたいほどの家であった。
残念ながら現在、清風家は断絶している。

内貴の別邸である京都洛北の松ヶ崎はまさに山紫水明の地。
大観は泰産寺の仕事場で大きな節が二つもある堅木の板を選び、その節も「紫や水」の字の一画として彫琢した。
大正四年、京都を去るにあたって、多くの画家たちと出会い、最良の芸術談義をさせてもらった内貴清兵衛の恩に報いるため、その松ヶ崎山荘に「山紫水明楼」なる濡額を彫琢した。
以前よりひそかに思い描いていた「魯山人」と、はじめて銘を入れたのである。
「北大路」家を相続する7年前のことであった。








                   ◇黒田草臣 四方山話◇  


                         〔本物を見分ける眼〕 

                   ‥‥魯山人の美意識‥‥
 

          陶心 「やきもの散歩みち」 窯変米色瓷に挑む渡部秋彦 


               シジュウガラ・燕・椛トンボの撮影: 辻岡正美さん



                             新作:根来大椀






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