曜変天目、そして油滴天目・禾目天目・鷓鴣斑天目‥‥天目茶碗(下)  陶のもたらす美 N

曜変天目碗は宋代に「七碗は焼き上がっていた」ともいわれているが‥‥、
現在、世界には3碗しか遺っていない。すべて我が国の国宝に指定されている。
ほかの曜変天目は、戦災や震災などで失われたかも知れない。
ところが、杭州市上城区の古城跡地から稲葉天目に勝るとも劣らない曜変天目茶碗の陶片が、出土したことを公表された。 
2012年2月、中国深圳博物館の国際シンポジューム
「中国古代黒釉瓷器学術研討會」で公表された曜変天目の陶片


ここは南宋皇城の遺跡からも近く、南宋代には迎賓館があった場所だともいわれているところで、ほかにも越窯・定窯・建窯・吉州窯・汝窯・鞏義窯などの陶片も多く発見され、
宮廷用の刻銘「御厨」「苑」「後苑」「貴妃」「供御」「殿」「尚薬局」等が見られたという大発見だった。
2012年5月には杭州南宋官窯博物館館長、ケ禾颖氏が、
「杭州市内の工事現場から出土した曜変天目の陶片は、全体の3分の2ほどが残っていた」という論文を発表された。
宝石が角度によって、その輝きを変えるように、天目も光の角度によって輝きや色調を変える。 
その深遠な釉調は神秘性を秘め、その天目のもつ異国の妖しい色彩を、貴族たちは唐物として珍重し楽しんだ。 

山上宗二記の冒頭には、「わび茶」の創始者・村田珠光の秘伝書といわれる『珠光の一紙目録』がかかげられている。
「茶の湯の起こりは、普光院殿、鹿園院殿の御代より、御唐物(からもの)、同じく御絵讃(えさん)など歴々集め畢(おわ)んぬ」とある。
普光院は足利六代将軍・普広院足利義教(一三九四〜一四四一)の鹿園院は南北朝を統一し、北山山荘(鹿苑寺金閣)を営み、足利幕府の最盛期を現出させた足利三代将軍鹿苑院足利義満(一三五八〜一四〇八)‥‥

そして東山山荘(慈照院銀閣)を営み、文芸に造詣が深かった。
室町幕府八代将軍・足利義政の蒐集された「東山御物」といわれる名器がある。

名器の価値を義政の側近によってその順に示して編纂された目録が
『君台観左右帳記』なるものだ。
その諸写本はよく引き合いにだされるが‥‥、
天目は計七種‥‥
曜変・油滴・建盞(禾目)・烏盞・鼈盞・能盞(玳玻盞)・天目(只天目)
という順に記されている。

これら中国宋代に焼かれた数知れぬ多くの天目茶碗の中に
宝石にも勝とも劣らない「世界一美しい天目」がある。
日本では『曜変天目』とよばれているものだ。

藤田美術館


建窯の天目茶碗

自然界から生まれた鉄分の多い土と複雑に酸化金属が混じりあった岩石から生まれた釉、
宋代建窯の間仕切りのない巨大な半地下式龍窯で炎の力を呼び、
二度と出来ない奇跡の産物として「曜変天目」は誕生し、日本に渡ってきた。
光を浴びると漆黒の釉面に神秘的な瑠璃玉虫色とでもいうべき
大小の斑点が現れてくる「曜変天目」こそ、
『天目』という語感がぴったりの趣である。

東山御物の茶碗の王座を占めて珍重されていた『曜変天目』の三碗が国宝に指定されている。
その三碗すべての結晶の出かたが違うのに注目したい。
これこそが、窯変‥‥偶然のなせる曜変天目である。
この秘密は龍窯であり、そして薪の燠に埋もれて強還元された匣鉢の中の天目釉だろう。

こうして輝緑凝灰岩を砕いた上釉の中に含まれていた金属化合物が
窯の中で鉄分の多い素地と複雑に融合し結晶したものと思う。
表面が何ミリミクロンかのとても薄い幕に覆われているので、プリズムの作用をして
光(日光、電球、蛍光灯など)の光線を分解し、その角度によって微妙に虹色の光彩を放つ
あたかも星が瞬くような趣であるというところから星輝く意味の「曜」と詩的に現したもの
見た人に、眩いほどの感動をおぼえさせてくれる。
現代陶芸家も再現に努めてはいるが、
宋代に焼かれた自然の窯変による曜変天目のように深い神秘性は難しいようだ。

静嘉堂文庫・大徳寺竜光院・藤田美術館が所蔵する曜変天目が国宝となっている
信楽MIHO MUSEUMには前田家伝来、大仏次郎が所蔵していた曜変天目茶碗がある
小堀遠州によって曜変天目と箱書されているが、外側は油滴天目、
見込みは他の三碗の曜変より虹彩は鮮やかではないが、青・緑・紫の曜変が浮かんでいる
しかし油滴天目だという見方もある

世界に曜変天目の伝世品が三点とは少なすぎるが
本家の中国・北京と台湾・台北のどちらの故宮博物館にもない
「あの曜変の大きな星紋が中国人に生理的に受けつけられなかった」ともいわれ、
中国では不気味な茶碗であったのかもしれないと考えていた

静嘉堂文庫


日本で重要文化財に指定されている徳川黎明会の曜変天目といわれているのは、
金代に磁州窯系の窯で焼かれた碗なりの油滴天目茶碗ようだ。

曜変天目の中でも最高の茶碗を織田信長が持っていた…という。
義政の東山御物は信長に伝えられたと『名物目利聞書』には
「曜変、稲葉丹州公にあり、東山殿御物は信長公へ伝へ、
焼亡せしより、比類品世に屈指数無之なり」
とあるからだ。

名物狩りに執念を燃やしていた信長にしてみれば、
あの眩いばかりの「曜変天目茶碗」を見逃すわけはない。
そして、信長はいつも、この虹色に輝く曜変天目茶碗を愛用し、
蘭丸に預けるか、袂から離さず持っていたと思われる。
茶の湯の度に自慢の名碗を見せて、驚かせたかったにちがいない。
それゆえ、
本能寺の書院での茶会記に載っている三十八種のなかにも入っていなかったと考えられ
翌日、明智光秀の「本能寺の変」で好奇大名・信長と一緒にその生涯を閉じた。

曜変天目は建窯蘆花坪で焼かれたといわれているが、その陶片は見つかっておらず、
古窯址はいまだ特定されていないから、より神秘さを増していた。



「曜変天目」に次ぐ名品と言われるものは『油滴天目』
黒褐色の上釉に銀鉄色を主に藍色や褐色の斑点が眩く変幻して輝いている。
あたかも水面に油の滴が散って浮いているように見えるので日本でこの名がつけられた。
ちなみに中国では明代の文献に「滴珠」(てきしゅ)と称されている。
六点ほどの秀品が日本に伝えられているが
とくに安宅旧コレクションの「油滴天目茶碗」は
銀色の星紋が密集しており素晴しい。
古来より油滴天目中最高のものとされ、
関白秀次、西本願寺、京都三井八郎右衛門、若狭酒井家代々、伯爵忠道、安宅家に伝来していた。


国宝:油滴天目茶碗(大阪東洋陶磁美術館蔵) 「拙著:やきものは男の本懐」より


また、重要文化財に指定されている徳川黎明会の曜変天目といわれているのは、
金代に磁州窯系の窯で焼かれた碗なりの油滴天目茶碗である。


この油滴天目のつぎが、建盞といわれる『禾目天目』
建窯で最も多いのが、この禾目天目だから建盞といわれているようだ。
油滴天目の釉が高温によって溶け出し、
そ油滴の結晶が細い筋となって流れ出したものだろう。
兎の毛に見えるから『兎毫盞』とも『兎毛盞』ともいい、
日本では稲穂に似ているところから『禾目天目』といわれている。
現代の陶芸家は、油滴天目には油滴天目釉をつくり
禾目天目は別に禾目天目釉をつくって上釉として調合している。
中国宋代のはどちらも同じ釉のようだ。



かの微宗の著した『大観茶論』には、「盞色貴青黒、玉毫条達物為上」とあり、
黒青釉に兎の毛のような玉毫がはっきりとしている建窯の天目を好んだようだ。
禾目天目茶碗の高台内に「供御」とか、「進盞」と印刻されたものにが多い。

 
禾目天目「進盞」



黒釉に白い斑点をもつ鷓鴣斑も建窯の芦花坪窯で焼かれたものとされる。
もとは黒釉中に黄褐色の斑点が大きく表れている油滴天目のことをいっていたようだが、
中国では黒釉に白い斑点を打ったものをいう。
日本ではあまり評価していないこの鷓鴣斑だが、
1993年には鷓鴣斑天目が福建省科技成果鑑定において中国国内最高水準とされるなど
中国の古陶磁界での評価は高い。

福建省武夷山にあった古美術店で見つけた鷓鴣斑 


 


白磁で名高い北宋の定窯で生まれた「黒定」、「柿定」はシャープな薄造りで気品が感じられ,
定窯柿釉茶碗(世界救世教)、
ほかに金彩が施された黒釉金彩茶碗(同)、金彩蝶牡丹茶碗などが重要文化財となっている。

吉州窯では白い素地に鼈盞・木の葉天目など独特の吉安天目(吉州天目)が誕生している。
玳玻盞天目は梅花天目・龍天目・文字天目・鸞(らん)天目など多彩だ
鎌倉時代、この吉州窯で焼かれた玳玻盞の名品のほとんどが日本に渡ってきた

磁州窯系の華北一帯の窯で焼かれた河南天目といわれるものの中に
白い素地に黒釉の油滴に、白の覆輪がある『油滴白覆輪天目』(白縁天目腕)も粋なものだ。
時代が下るが、
福建省でも建窯以外に南平市の郊外にある茶洋窯で焼かれた灰被天目がある。
「珠光天目」とも称され、建盞の茶褐色の素地とは違いやや白く、
釉は二重掛けの天目茶碗でわび茶で珍重された。


天目台に禾目天目茶碗「供御」



天目茶碗には天目台がつきもの通常、黒漆塗りの天目台にのせて使う。
天目台の無い天目茶碗は「台なし」という語源をつくった。

この天目台が簡素化したものが、汲出碗や煎茶碗に使う茶托となったという。

瀬戸毅己 曜変天目茶碗(2015作)
瀬戸毅己 曜変天目茶碗(2017作)


  

 








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