旅 216 高木神社

2012年 5月14日 No.4
高木神社
 英彦山神宮の摂社に産霊神社(むすびじんじゃ)があった。祭神は高皇産霊神(たかみむすひのかみ)・玉依姫・熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)の3柱だった。案内板には、『文武天皇の時代、往古 高皇産霊尊鎮座の旧地であるという神託があり、聖武天皇、天平12年頼願により建立されたと伝えられています。』とあった。
 また、高良大社の境内外摂社にも「高樹神社」あり、高皇産霊神が祀られていた。「旅211 高良大社(2)」のその部分を以下に引用する。
『 高良大社の境内外摂社に「高樹神社」がある。高良山の麓に鎮座している。祭神は高皇産霊神(タカミムスヒノカミ)である。古くは「高牟礼権現」と称し、高良山の地主神と伝えられる。高皇産霊神は高木神(=高御産巣日神、高牟礼神)とも呼ばれる。
 高樹神社は「三代実録」元慶2年(878)11月13日の条に、「筑後国高樹神二従五位上ヲ授ク」とあり、やがて正五位下に進んだことが、天慶7年(944)の「筑後国内神名帳」によって知られる。
 もと地主神として山上に鎮座していたが、高良の神に一夜の宿を貸したところ、高良の神が神籠石(こうごいし)を築いて結界(区画を定め出入を禁ずること)の地としたため山上に戻れず、二の鳥居の手前に鎮座するに至ったという伝説が、高良大社の古縁起に見えている。
 高良山の別名を「高牟礼山」(たかむれやま)と称するのも、この神の名に因むものであるという。山の名前についてはいつしか高牟礼から音が転じ、良字の二字をあてて「高良」山と呼ばれるようになったという説もある。
 つまり、長い間に高良大社の祭神は移り変わっていることを示唆している。 』

 英彦山神宮の周りには高木神社が多い。地図にも高木神社があったので寄ってみることにした。英彦山神宮から国道500号を西に走り、右折して国道211号に入った。2〜3km走ると、嘉麻峠(標高500m)があり、ここが分水嶺になっている。遠賀川はここに源を発し北へ流れて響灘へ注ぐ。嘉麻峠の西4〜5kmのところに馬見山(978m)がある。国道211号を北へ10kmほど走り、右折して県道67号線へ入ったところに高木神社があった。近くを遠賀川が流れていて、この辺りから川幅が少し広がる。つまり、高皇産霊神は遠賀川の水分神(みくまりのかみ)の役をしているようだ。





 バス停に「下高木神社」とあったので、ネットで調べてみると、この高木神社は福岡県嘉麻市桑野2588番にある高木神社で、もう一つ福岡県嘉麻市桑野1399番に高木神社があり、こちらの方がメインであるようだ。多分「上高木神社」とでも言うのだろう。
 『神社事典』で調べてみると、果たして「上高木神社」と思われる方が載っていた。旧住所の福岡県嘉穂郡神有で載っていたので、ネットの地図で番地を調べたら福岡県嘉麻市桑野1399番の方が神有に近かった。(上)高木神社の方がより遠賀川の上流に位置している。
 以下、『神社事典』より載せる。
『 旧県社。高皇産霊神を祀る。弘仁12年(821年)、羅運上人の創祀と伝え、英彦山神宮の神領に勧請された彦山48大行事社の一つで、特に当社は、その中でも首位に置かれた。天正2年(1574年)秋月種実は、社領を寄進し、元和9年(1623年)黒田長政の二子長興が、この地を領するに及び藩主崇敬社に加えられ、弘化3年(1846年)小野谷分10ヶ村の触惣社に定められた。祭礼10月19日。 』

 高皇産霊神は記紀に登場する。『古事記』に「高木の神は高御産巣日神(たかみむすひのかみ)の別名なり」とみえる。『日本書紀』では高皇産霊神と記される。
 高木の神とは、高い木に降下する神の意で、アジア大陸に広く存在する、天から垂直に降下して来る神と見るべきものであるという。
 吉野ヶ里遺跡の墳丘で見た柱や諏訪神社の御柱などのイメージだろうか。

 県道67号線を北へ4〜5km走ると、また、高木神社があった。





千木の一部が落ちていた。

 林の中に竹が生えていた。



 竹の生長の早さには驚かされる。


 高皇産霊神(高木の神)について述べたいが、少々前置きが長くなる。

 「天孫降臨神話」は朝鮮半島の古代国家の始祖神話と、種々の点で極めてよく似ていることが指摘されてきている。古墳の埋葬品から見られるように4世紀末から5世紀初頭にかけて、日本は朝鮮半島を経由した大陸文化の影響を色濃く受けている。その急激な変化から、「騎馬民族が到来して王朝を建てた」とする説まである。(江上波夫説) 騎馬民族に征服されたかはともかく、この時期にたくさんの渡来人が来て、騎馬民族の文化が到来したことは確実である。
 この時代、日本は鉄の多くを朝鮮半島に依存していた。高句麗の南下政策により鉄の安定供給に不安を感じた日本(倭)は、高句麗の南下政策に対抗して高句麗と戦って敗れたと見られる。この敗戦は日本の支配者層に大きな衝撃を与え、敗れた相手国から先進技術を含め多くを学ぶ必要を感じ、朝鮮半島を通じての大陸文化の吸収を急務とした。それが急激な大陸文明化だったのではないだろうか。これは白村江の戦いで大敗した後、律令制度を導入して中央集権国家を目指した動きや、幕末、欧米の脅威(植民地化)にさらされ、明治維新を敢行し欧米の文化を吸収した動きに似ている。
 あるいは明治維新のような「王系の交代」という極めて大きな影響があったという説もある。確かに「河内王権」なる変化が見られないわけでもない。日本はこの軍事的敗北により、それまでの最高首長の系統が、軍事指揮権や外交権者としての権威を失い、王系の交代を招いたのかもしれない。応神朝以降、明らかに大王の権威は高まったように見える。(前方後円墳の巨大化など)

 目に見える変化は、古墳の埋葬品などから分かるが、当然その他の政治思想的影響もあったと考えてよい。日本はそれを高句麗王の絶対的権力に見出したのではないかと、私は考える。高句麗軍の統一した戦力はその王権の求心力に依存した。高句麗など朝鮮半島の古代の王は天の神の子孫であることを以て王権の正当性を主張する。(中国の王権神授説的なものとは少し違う。中国では禅譲という思想がある。)
 そして、政治思想的影響が表現されているのが「天孫降臨神話」の導入ではないかと考える。先に述べたように「天孫降臨神話」は朝鮮半島の古代国家の始祖神話と、種々の点で極めてよく似ていることが指摘される。 
 ゆるやかな結びつきの豪族連合的な社会から、上下の規律が厳しい、専制的な統一王権の体制への切り替えには、それを支える新しい政治思想が必要であった。それまでの神話は、多くの豪族の始祖神でもある多彩な男女の神々が自由奔放に活躍する多神教的世界であった。専制的な統一王権の体制のためには唯一絶対神・至高神的な神が必要だった。それを朝鮮半島の古代国家の始祖神話に求めた。そして、記紀神話において多神教的な神話と統一的国家感を担う建国神話を融合させる神話としてを「天孫降臨神話」が導入された。記紀神話において「天孫降臨神話」は格になる神話である。ある意味、この神話により王の出自や血統が重要になった。
 「天孫降臨神話」は天皇(大王)の支配権を権威づけるための、天皇家とその同伴氏族にとっては重要な神話だ。高皇産霊神(高木の神)は主にこの神話において登場する。

 「神話学」とか「比較神話学」とか神話に関する研究分野がある。私は関係する本を読んだことはない。古代史の文献学の本にはその研究成果がよく登場するので、それによって知る程度だ。
 「神話学」では、天皇家の先祖である天孫に地上世界(日本)の統治を命じて天降らせたのは誰かというと問題は、研究者の間では既にかなり以前に決着がついているという。実は高皇産霊神(高木の神)という馴染みのない神が、天孫に天降りを命じた降臨神話の本来の司令神(主神)だということが既に共通の認識になっているという。

 「天孫降臨神話」には、『古事記』と『日本書紀』に、合わせて6つの異伝がある。その内訳を見てみると、高皇産霊神を主神にするもの3つ、アマテラスを主神とするもの1つ、アマテラスと高皇産霊神を主神とするもの2つで、それぞれについて考察した結果、高皇産霊神系の方が古いという結論が出ているという。特に『日本書紀』の本文(正伝)は高皇産霊神を主神としている。
 では、本来「天孫降臨神話」の主神であったはずの高皇産霊神は何時頃からその座をアマテラスに明け渡したのだろう。その過渡期は7世紀末から8世紀初頭だと考えられている。つまり、記紀が成立する時期が高皇産霊神からアマテラスに大きくスライドした時期であるとされる。
 それまでは、高皇産霊神のほうが皇祖神として祀られていたようだ。「皇祖神」という呼び名は皇室の血縁上の祖先神としてつかわれるが、同時に神話から「国家神」の意味も加味されて使用されている現実がある。
 アマテラスが残り、高皇産霊神が消えていく背景には、アマテラスが圧倒的に地方豪族にも広く知られ馴染みがあった現実と、『古事記』が本居宣長によって脚光をあび、国学者によって広められたことによると考えられる。『古事記』は天孫降臨神話においてアマテラスと高皇産霊神を主神とするが、アマテラスがメインで取り上げられている。

 記紀が編纂される7世紀から8世紀にかけて、アマテラスをクローズアップしたのは天武天皇だと云われる。記紀はその成立時に権力を握っていた藤原不比等の影響を無視できないが、初期においては天武天皇がアウトラインを引いたことは間違いない。
 アマテラスの「天照大神」という称号は、かなり遅く7世紀末になってつけられたもので、この神の本来の名は「日女」(ヒルメ)あるいは大日女(オオヒルメ)だった。
 ヒルメを日神に仕える「日の妻」、すなわち巫女とする説もあるが、神名の類型の点でも天の岩戸神話の点でも正しくないように考える。ヒルメの「ル」は「ノ」と同様の助詞であり、「ウカノメ」がウカ(食物)の妻ではなく、食物を擬人化して女性と見た「食物の女神」であるのと同様に、日(太陽)を擬人化して女性と見た「太陽の女神」を意味すると考えた方がいいという説に賛成である。
 天武天皇はなぜアマテラスを「皇祖神」「国家神」として採用したのだろう。天武天皇は律令国家の成立に向けて奮闘していた。その中で氏姓制度改変も含めて国家神にアマテラスを採用することが政治的に得策と考えたようである。アマテラスについては伊勢神宮などで今後、述べる機会は多いので、ここでは高皇産霊神と中心に記す。

 ある時期まで高皇産霊神が「皇祖神」「国家神」であったことは間違いないが、「皇祖神」であるからには天皇家によって祀られていなければならない。果たして高皇産霊神は天皇家によって祀られていたのだろうか。
 「月次祭」(つきなみのまつり)という宮廷の祭がある。アマテラスが明治になってから伊勢神宮で天皇の奉斎を受けるまで、王(天皇)が自らの先祖神を祭ったことはなかったと長い間言われてきた。しかし、それはアマテラスを先祖神とした場合のことであって、高皇産霊神は、年に2回、天皇が自ら祭っていた。それが「月次祭」だという。月次祭は神祇令(律令)によると6月と12月の2回行われた国家的祭祀である。「つきなみのまつり」という名称から考え、もともと毎月行われていたものだろう。神社によっては「月次祭」という名称で毎月祭をやっているところもある。
 公的祭祀のなかでも2月に行われる祈年祭とこの年2回の月次祭に限って、百官が神祇官に参集し、中臣による祝詞の宣上と忌部による班幣が行われたという。
 月次祭は天皇親祭であり、古代において天皇親祭で行われた祭りは、月次祭と新嘗祭のみだったという。天皇親祭は「神今食」(かむいまけ・じんこんじき)と呼ばれる夜の神事を伴う祭で、天皇は夜、宮中の中和院内の神嘉殿という所に、自ら神を迎え酒食をともにした。神殿には天皇の御座とともに神座も用意され寝具が奉られた。神との共食・共寝の儀式と言われている。
 高皇産霊神は宮中の神祇官西院の「八神殿」という神殿で、専属の大御巫(おおみかんなぎ)によって常時手厚く祭られていた。八神殿に祭られている神はタカミムスヒ・カミムスヒ・タマツメムスヒ・イクムスヒ・タルムスヒ・オオミヤノメ・コトシロヌシ・ミケツ神の八柱である。「ムスヒ」の神を中心に「ムスヒ」を支えるオオミヤノメ(宮殿の神)・コトシロヌシ(託宣神)・ミケツ神(食料神)が祀られていた。

 『日本書紀』の顕宗天皇(五世紀末)3年条に、「月神」「日神」が、ともに高皇産霊神を「我が祖、高皇産霊神」と呼んだという記事がある。高皇産霊神は「天」を象徴した神のようだ。また、同じ顕宗天皇3年条に「高皇産霊神は天地を鎔造した功績がある」との記述がある。鎔造(ようぞう)とは金属を溶かし鋳型に入れて物を造ることであることから、高皇産霊神には「天」に「鍛冶」の要素が加味される。北方遊牧民族の始祖神話は「天」の要素と鎔冶伝承とを切り離すことができないという。

 高皇産霊神は土着の神ではなく外来神である。天皇家が外来神を祖神として採用したことは、その前の時代において天皇家とその同伴氏族の血の中に渡来人の血が流れ込んだ結果であると考えられる。

 高皇産霊神は『古事記』では「高御産巣日神」(高木の神)と記され、『日本書紀』では高皇産霊神と記される。タカミムスヒの「タカミ」はタカ(高)とミ(御)の2つの美称を重ねた「高く尊い」という意味で、これは皇位や天皇の座をさす高御座(タカミクラ)という語にみるように皇室に関する事柄のみにつかわれる最高級の美称だという。『日本書紀』が高皇産霊神と書いて神名に「皇」の字をあてていることを考えると明らかに天皇家を意識している。
 タカミムスヒの「タカミ」はほめ言葉であるから、この神名の本体は「ムスヒ」である。これは更に「ムス」と「ヒ」に分かれる。このうち「ムス」は「ヒ」にかかる形容詞で「生産」「生成」を意味する語だとされる。問題は「ヒ」の解釈だという。『日本書紀』では「高皇産霊神」と表記され『古事記』では「高御産巣日神」と表記されているため、この神を霊力神とするか太陽神にするかの2説があるようだ。高皇産霊神には「天」に「鍛冶」の要素が加味されているのだから、どちらもありだとも考えられる。
 『日本書紀』は漢文で書かれている。理科系を自認する私には手に負えない分野であるが、そこは得意な人の考察を参考にさせていただき考えていきたい。
 『日本書記』は日本語の神名を、その神がおおよそどのような性格の神であるか分かるように表記している。その場合、漢語として違和感のない名称で表現することが、漢文の文献である『日本書記』にとって重要である。もし仮に、日本語でムス=産、ヒ=日だからといって、日本語の語順のままに「産日」と表記したら太陽を産む神になってしまうという。漢語として分かることに重点を置いたため、『日本書記』の場合、日本語の神名が持っている意味のうちの、ある部分は省略されてしまうことが起きるという。一方、『古事記』は日本語として発音できることに主眼を置き、漢字の意味にはあまり頓着しないという方針のもとに表記されているという。一例を挙げると山の神・海の神を意味する「ヤマツミ」「ワタツミ」という神名を『日本書記』では「山祇」「少童」と書き、『古事記』では「山津見」「綿津見」と書いている。
 この考察からするとタカミムスヒの「ヒ」は太陽を表す「日」ということになる。従って「ムスヒ」は「万物を生成する日」という意味になる。私もこの説に同意する。7世紀後半、天武天皇が高皇産霊神の太陽神の代わりに地方豪族にも馴染みがある新しい太陽神を国家神としようとしたとき、一番ポピュラーだったのがたまたま女性の太陽神だった。その神を天照大神と呼んだ。「天照」は太陽や月にしかつかわれない形容詞であった。
 皇室の子孫は記紀歌謡や万葉集などで「日の御子」と呼ばれるが、これもアマテラスの前のタカミムスヒも太陽神だったので、当然の呼称であった。
 日本土着の女性太陽神アマテラスに対して外来の男性太陽神タカミムスヒは、同じ太陽神でも性格を異にしていた。また、男性太陽神であったため父系観念も強く導入されたようだ。北方ユーラシアに起源を持つ太陽神は、同時に天帝でもあり、太陽ばかりではなく月や星をも含み、時には日月とも言い換えられる。しかし、アマテラスに椅子を奪われ、忘れ去られる中、その持っていた意味も次第に曖昧になり8世紀後半以降になると「ムスヒ」もほとんど「魂」の一字で書かれるようになる。タカミムスヒの性格は時代の中に沈み、大きく変遷していった。他の「ムスヒ」の神たちも同様である。

 天武天皇が律令制国家の建設に向けて取り組むアプローチの一つに氏姓制度改革があった。詳しくは天武天皇に関わる社寺を訪れた時まとめようと思っているが、それまでの氏姓制度を簡単に述べておく。
 タカミムスヒなど外来神の導入と同時に北方から取り入れたものに、父系観念や血統・出自、世襲観念などがある。氏(ウジ)は、日本では5世紀後半頃から、豪族層の間でのみ見られるようになった組織である。日本のウジは自然発生的な血縁集団ではなく、支配層の間でのみつくられた、「政治的に編成された組織」である。
 ウジという語については、この語は朝鮮語のul(族)、モンゴル語のuru-g(親戚)、ツングース語のur(子孫)など「男子の系統を表す語と同源」だと言われている。すなわちウジは、天孫降臨神話や父系思想、血統主義などと同時に、北方ユーラシアの文化の一環としてこの時期に導入されたものと考えられる。この「氏」という組織が、豪族層の間で生まれたことによって、支配者層の組織化と、その安定的・継続的な発展が可能になり、それが、ひいては律令国家形成の基盤になった。(文字などの習得には安定的・継続的な基盤が必要であった。)
 氏グループの構成は、当然ながら時代とともに変化し発展するいわば生き物のようなもので簡潔に述べるのは難しいので、7世紀中頃あたりについて絞ってまとめてみる。
 日本の古代の支配層の上級の「氏」は臣(おみ)、連(むらじ)、君(きみ)といった姓(かばね)と呼ばれる称号を持っていた。具体的には蘇我臣、大伴連、宗像君のように呼ばれていた。この姓が、氏のグループ分けの一つの標識である。姓については機会があったら詳しくまとめたいが、ここでは簡単に述べておく。
 多くの臣・君が地名を氏の名しているのに対して、連は王権内での職掌名が、多くの場合そのまま氏の名になっている。上位の臣は大和政権初期において大王家に匹敵する力を有した。また、上位の連は時には王権内で政を動かすほどの力を待った。しかし、基本的に連は、大王家(天皇家)の存在が彼らにとっては「氏」存立の基盤であることを、名前自体が表している。そして、大王家が新たに取り入れた外来の北方系神話や神々は、連系の氏グループによって専ら担われ、土着の神話や神々は君系の氏グループによって担われることが多い。
 私が注目しているのは物部連の始祖神に饒速日(ニギハヤヒ)、大伴連の始祖神に天忍日(アメノオシヒ)など大王家の側近である氏の祖先神に「―ヒ(日)」のタイプがいくつか見られることだ。

 天武天皇は律令国家の成立のため公地公民制を施行する必要があった。公地公民姓とは豪族から土地と人民を取り上げることである。これはある意味明治維新後の廃藩置県より難しかっただろう。
 天武天皇は684年(天武13年)の「八色の姓」で臣・君・国造系の氏を名目上優遇・重視し、連・伴造を冷遇した。これは土地と人民を取り上げるとき不平不満や造反が出る恐れの高い臣・君・国造系の氏を優遇するポーズをとる必要があったのだろう。
 また、臣系グループ、連系グループ、君系グループがお互いに出自を異にすることで反目し、統一を欠く情勢の中で、律令国家の成立を目指す天武天皇は、歴史書の編纂を命じて、新しい中央集権国家を支えるイデオロギーとしての、神話の一元化を図った。(歴史書は一等国の条件としても必須である)
 その際、天武天皇は皇祖神・国家神に専ら連・伴造の氏が信奉した党派的・派閥的色彩の強い神である高皇産霊神ではなく、土着の太陽神であったアマテラスを採用した。
 アマテラスは主として君系のなかの有力氏や一部の地方豪族が信奉していた神であるが、しかし同時に土着の太陽神として古くから神話を通して列島全体の広範な人々に知られ、支配層の人々にも党派を超えて親しまれていた神だったことが皇祖神・国家神として撰ばれた一因であったと考える。更に私は、アマテラスはスサノオや大国主とも繋がる弥生の土壌の中で育まれた女王であり、その深部には女王・卑弥呼の記憶が潜んでいたように思えてならない。
 高皇産霊神は確かに皇祖神として存在した。そして高皇産霊神も消された神の一人であった。 

 
 今、お盆で長野に帰っている。父が亡くなってから住む人がいなくなった家に一人で帰っている。父がいた頃は家族で帰っていたが、今は一人で墓守の為に帰っているようなものだ。それでも私が帰らなければ、御先祖様が家に帰る準備ができない。天皇家ほど歴史がない家でも、どの家にも祖先はいて、みんなそれぞれに供養している。子どもたちは神奈川県生まれで神奈川県育ちなので長野は故郷ではない。私がお盆に帰れないようになったら、墓守はどうなるのだろう。昔は本家である我が家には盆や正月には親戚が集まり賑やかだった。去年は盆の最中に来客があるかも知れないので、なるべく家にいたが、結局、姉が訪れただけだった。今年は13日に長野に帰り、墓参りと迎え火を焚いた後、盆提灯も出さずに過ごした。今日、8月14日は朝から昼までファミレスで本を読んで過ごした。
 父が亡くなる前に入院したとき介護休暇をとって長野に帰った。入院中に居間を改築してエアコンも入れて、退院した後の父の生活に備えた。退院した後の夏の1シーズン、エアコンのお蔭で父は快適に過ごせたようだ。それでも癌が再発して病院暮らしになり、エアコンも2シーズン目の役には立たなかった。まだ、居間もエアコンも新しいので、帰郷したときは快適に過ごせる。年に延べ10日程しか帰らないので、テレビは地デジに対応させていないので映らない。去年もテレビが映らないので九州の旅のブログを書いていたのを思い出した。約3週間余りの九州の旅の後、頼まれた仕事やテニスで忙しく、また、のんびり楽しみながらブログを書いていることもあり、一年余り前の旅のブログをこの夏も書いている。タイムリーではないが自分の記録のために書いているので、それで良しとしている。それでもこの1年間、近場を旅しているのでブログに記録として書かなければいけないことが、溜まってしまっている状況だ。
 ファミレスから帰った後、テレビも映らないのでブログに取り組み一つ仕上げた。

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