ウクライナ人捕虜から見た日本人捕虜

ウクライナ人捕虜から見た日本人捕虜
 ステファン・コスティク(鈴鹿国際大学)
1. はじめに

 終戦の年から50年以上の歳月を経た今、このようなテーマを取り上げる必要があるのかという考えを持つ人の数は少なくないだろう。日本でしばしば耳にする言葉通り、「済んだことは水に流そう」式に従うなら、今回の発表は余り意味がない亊である。また、日本の国際化を必死に推し進めようという人から見れば、そのような過去の出来事に目を向ける必要はもはやないだろう。更に、もうすでにシベリア抑留の体験記は百冊以上存在するのに、今さらこのテーマを扱う必要がどこにあるのかと言う人もいるだろう。
 しかし本当にそうであろうか。また、それをよしとすべきであろうか。自分の身内(父、夫、妻、息子、兄弟、姉妹など)の中で抑留された人、あるいは二度と帰らぬ人となり、未だに消息不明の多くの人々のことを考えると、「もう過去の出来事だ」と言って済ますことができるだろうか。
 この50年以上の間に日本政府はこの実態を知るためにあらゆるチャンスを活かしたと言えるだろうか。また、ゴルバチョフが持参してきた資料は本当にすべてであろうか。そうとは思えない。1991年に解体された旧ソ連を構成していた15の共和国にあるKGBの古文書館(アールカイヴ)には、膨大な見知らぬ資料がまだ手つかずのまま眠った状態で保管されているはずである。従って私は日本政府の外務省に対してこのテーマを積極的な態度でもう一度15の独立国家に働きかけていただくよう希望したい。
 1991年(ソ連解体の年)まではソ連の中でもこのテーマが厚いベールに覆われていたため、日本人と一緒に抑留されていたソ連の国民でさえこれについて口を開けることは禁じられていた。しかし最近になって独立した旧ソ連の共和国の国民からこの事についての証言が出始めている。その証拠に私が入手したUPA(パルチザン式ウクライナ解放軍)の全ウクライナUPA協会会長からの手紙には次のように書かれている。「あなたに一つの質問がある。我々の元UPA兵士は日本の関東軍の元兵士と一緒にグラグ(強制労働収容所)で刑に服していた。彼らの中の何人かはこれについて短い証言を書いている。あなたは学者としてこのテーマに関心がないだろうか。また、この証言を読んで日本の新聞に記事を載せることができないだろうか。そのような記事は元の抑留者にとって価値があると思うのだが。まして彼らの内の何人かはまだ健在であろうと思う。私の意見についてあなたはどう思うか。」
 さっそく私は中日新聞の島田記者と連絡をとり、入手した証言に基づく記事が掲載された。と同時に今回の研究発表のテーマとすることを決めたのである。


2. 終戦時の日本軍と在留邦人の状況

 若槻泰雄著『シベリア捕虜収容所』(上)(1頁)によれば「終戦当時、海外には三百万を越える日本軍隊が展開していた。それは、北は北緯五十度を越える満州、千島の北端から、南は赤道をすぎてジャワ、チモール、ソロモン群島まで、東は南太平洋マーシャル群島から、西はインド洋のアンダマン諸島に至る地球全表面積の十五分の一にものぼる広大な面積におよんでいた。」
 このほかに、日本軍の占領地域あるいは従来の日本領土には、満州、中国をはじめ、樺太、朝鮮、台湾などに軍隊とほぼ同じ数の在留邦人が居住しており、海外の日本人の総数は、合わせて六六〇万余と推定されていた。」この数は終戦当時の日本の人口の9.2%に相当する。
 昭和二十年九月二日付、連合軍総司令官マッカーサーにより出された「日本政府宛一般命令第一号」によってそれぞれの地区の連合軍司令官のもとに各地の日本軍部隊は降伏することになった。その結果として、軍人、在留邦人をふくめた全日本人は次のように各外国軍隊の支配下に入った:
(1)中国軍管区 - 【概数】約200万名、全海外同胞の30%
(2)ソ連軍管区 - 【概数】約272万名、全海外同胞の41%
(3)東南アジア軍管区 - 【概数】約75万名、全海外同胞の11%
(4)オーストラリア軍管区 - 【概数】約14万名、全海外同胞の2%
(5)アメリカ軍管区 - 【概数】約99万名、全海外同胞の15%
 敗戦当時の日本政府は在外日本人の問題についてどう対処してよいか混乱して決めかねていたところ、連合国総司令部はすべての日本人の引き上げを要求したためいわゆる「総引き上げ」が開始されることになった。アメリカ軍は二百艘余りを引き上げ船として日本政府に貸与し、その結果として各地の引き上げは昭和二十一年中に終了した。但し、イギリス軍の管轄する東南アジアとソ連軍管理地区とは例外であった。イギリス軍は戦災地の復興作業などに従事させるため日本軍捕虜を残留させており、この作業隊の帰国が完了したのは昭和二十二年であった。


3. 終戦当時ソ連軍管区の管轄下に置かれた日本軍と在留邦人の状況

 昭和二十年八月十五日の降伏と同時におよそ272万人(内:婦女子を含む一般人200万人)がソ連軍の管轄下に置かれた。そこで一般人は強奪、暴行、男狩り、財産没収、射殺、その他残虐な行為に直面した。60万人以上の軍人の場合は約1000名を単位とする作業部隊に編成され、日本政府の働きかけにもかかわらず想像できないような状況の中で抑留され、帝政ロシア時代からすでにあったラーゲリ(一般強制労働収容所)に送られた。この場所は次の通りである: シベリア、外蒙古、中央アジア、ヨーロッパ・ロシア。当時の収容所の数は、分遣隊の作業場などを含めると約1800カ所とも2000カ所ともいわれる(ソ連領内の日本人収容所の分布については参考文献8付図、各地区の抑留者数と死亡明細については参考文献2の4,37頁を参照のこと)。
 ただし、1991年4月18日にゴルバチョフソ連大統領(当時)から日本政府に渡された「シベリア抑留死亡者名簿」には約38000名であるから他に約25000〜26000名の名簿が不足していることになる(参考文献3を参照のこと)。
 他方、ゴルバチョフのグラースノスチ(公開性)の政策によってソ連中に点在していた日本人抑留者墓地の一部が明らかになり、整備され始めた。しかし、上記の不明者に一部についてウクライナ人捕虜からの証言の中でこれに関する記述があるのでもう少し調査が必要である。


4. 元ウクライナ人捕虜から入手した日本人捕虜についての情報

 1941年6月、ソ連がドイツと開戦になるとドイツ軍のソ連進撃に呼応して、あるいはドイツ軍に強制されて、ドイツに協力したウクライナ人、及び先に述べたUPA兵士またはウクライナ人であるという理由だけで逮捕された一般の人々が、国の反逆者としてソ連の強制収容所に送られた。そこで関東軍の抑留者と共に収容所生活を送った。そして刑を終え、生きて故国に帰ることができた人々の多くがすでに亡くなっている。他方では、健在の方々が次のような証言をしている。


【その1】クリミアのイヴァン・クラフチェンコ氏の証言
 
 私は1948年から1949年にかけ、日本人と共にモルドヴァの第16収容所に収容されており、墓地の改造をさせられた。それは幅1メートル、長さ10メートル以上の、線路の路盤のような奇妙な形をしていたが、だれかが日本人達の墓だと言った。ソ連の強引な抑留は国際問題なっていた。調査団が来る、とかでソ連の軍人は普通の墓の形に直せと命じた。盛り土の部分を適当な間隔をあけて削り、形だけ普通(西洋風)の墓に直す作業をさせられた。そして収容所を管理していた機関、NKVS(エンカヴエス)の者が墓標を日本人のではない無関係な物に変えてしまった。囚人仲間の話によると、1945年〜1946年にかけてここにたくさんの日本人が収容されており、全員が亡くなった。
 以上のような証言にもかかわらず、先のゴルバチョフが持参した抑留死亡者名簿の中の「モルドバ」の分の記載は驚くべきことにわずか5人となっている。





【その2】チェルニフチ市のヴァシリ・ミハイロヴィチ・ザクレフスキー氏の証言
 

 日本人の収容所生活と彼らの強制労働の苦痛についてはいくらでも書ける。1946年の5月に私たちが収容所に輸送される途中、アムール川にあるコムソモルスク市で初めて日本人の捕虜を見かけた。彼は建設作業に従事していた。私はコムソモルスク市から西へ25キロのところにある収容所に到着した。この収容所から1キロ離れたところに二つの日本人捕虜収容所があった。大きなグループで彼らが警備兵に警備され私たちの収容所から600メートル離れていたお風呂場に連れられていた。彼らは私たちよりひどい身なりだった。皆、痩せて強制労働に疲れ果てた様子で、歯もなく20%ぐらいは眼鏡をかけていた。彼らは皆、兵卒で将校はいなかった。私は彼らと友達になりたかったが、彼らはロシア語を話せなかったし、私もまた日本語ができなかった。まして彼らはウクライナのことやウクライナ語をしらないと思っていた。それでも、私は彼らに身振り手振りで自分がロシア人ではないことを伝えようとした。スターリンの事を拳を挙げて批判してみせた。彼らはそれを理解し、ニコニコして私に握手してくれた。同時に私も彼らと同じ運命にあったことを理解してくれた。そのように私は彼らと知り合いになった。
 私の収容所から1500メートル離れたところに大きないくつかの倉庫が建てられていた。その中には日本の兵卒と将校の新品の軍服と靴、食料:魚の干物、米、肉の缶詰があり、ソ連軍のMVDに警備されていた。
 1948年の6月に私はイルクーツク州のタイシェット市に輸送された。ここで再び日本人と出会った。彼らは歌を歌いながら、作業大隊で工場に向かっていた。しかし、ここでは、彼らと話すことはできなかった。同年の11月に私は再びタイシェットから110キロ離れたブラーツク方面の収容所に輸送された。この収容所には100名の日本軍将校が収容されていた。その途中にも、鉄道建設のために3〜4キロおきに日本人収容所があった。私が収容されていた処は刑務所も兼ねていた。窓には鉄格子があり、昼間でも真夜中でも点呼が行われていた。韓国人やドイツ人もおり、私たちはここから鉄道建設のために作業大隊で強制的に連れて行かれた。ここでは一日に2〜3人の捕虜がまるで野ウサギのように射殺されていた。死体は頭を金槌で割られ、埋める前に掘った穴の中でもう一度機関銃で撃たれた。そして墓地は有刺鉄線で囲まれており、見張り台でソ連兵が監視していた。自分のバラックには仲良くしてくれた日本人「トコシト」がいた。


【その3】チェルニフチ市のウィポブィ氏の証言
 

 私たちは1946年の7月12日ルボフ市から家畜のように貨車でノボシビルスクまで運ばれた。貨車から降りてまるで動物のように追い立てられて風呂場に連れて行かれた。風呂場から出た時に自分の所持品はソ連兵の強奪によりすべて無くなっていた。
 クラスノヤルスクにあった中間集結地収容所での体験が一番悲惨なものであった。私たちはバラックに収容された。そのバラックには蚤やシラミが大量に発生しており、何日間にもわたり、まったく眠ることができなかった。2〜3日後、同じ所に20〜25人の日本人捕虜が輸送されてきた。日本人を見たのはこれが初めてだった。彼らはほとんど皆、金歯があった。この日からものすごい苦痛の叫び声を毎晩聞くようになった。ソ連兵たちが日本人を殴りつけた上、金に換えるために金歯を折って取り出していたのだということが後になって分かった。この行為は暗闇の中で行われた。金歯を抜き取った後にソ連兵は電気を点灯した。赤い共産党サディストの拷問を受けた血だらけの日本人が私たちの目に入った。そこから私たちは貨車でドゥディンカ経由ノリリスク収容所へ連行された。その時日本人は一緒に連行されなかった。


【その4】ティアップチェ村のオレナ・ドリシニャ氏(女性)の証言
 

 私はウラル地方の収容所からタイシェット地方にあった特殊な強制収容所に輸送された。それはクヴィトゥカの近くにあったニジュナ・ヴダチュナ(第39収容所)である。ここに1951年から1952年の間抑留された。着いた日から飲み水は消毒薬(塩化物)を入れたものであった。というのは看護婦によると私たちがここに到着する前に、日本人捕虜が抑留されていて、彼らは皆、赤痢とチフスで死亡したとのことであった。
 ある日作業大隊としてスコップを手にして墓を整理するため森に連行された。森に入った時に目前に現れたのは大きな墓地であった。墓には墓標があって、いくつかの墓標には日本語で何かが書かれてあった。私たちが分かったのは日本人は亡くなった同僚を日本式に埋葬し、印を殘しているのだと言うことだった。
 いくつかの墓には何十人もの死体が入っていた。墓の整理を始めるようにとの命令が下り、私たちは作業をし始めた。死体にはあまり土をかぶせることをしてなかった。私たちが土にスコップを軽く入れるだけですぐに死体が現れるような状態であった。死体の様子はこれもまだ髪の毛があり、ボロボロの衣服や靴を身に付けたままであった。私たちの仕事はこれらの死体を一旦掘り起こして、さらに深い穴を掘り下げ、そこへ再び死体を埋め直し、深く土をかぶせる作業であった。話によるとこの墓地には2500人の捕虜が埋められていて、隣の墓地にはさらに多くの人が埋められているということであった。この作業は一週間かかった。


【その5】サンビル市のミコラ・ペトゥルシュチャック氏の証言
 

 私は1950年から1954年の間に、まず最初はインター地方のミヌラグ(国際強制収容所)第5の中間集結地収容所に抑留されており、その後、アビスの第8と第1収容所にいた。アビスの収容所はウォルクータ地方の収容所方面の途中にあった。それぞれの収容所にたくさんの日本人の上級または下級将校がいた。私と親しくなった将校は加藤という名前であった。彼は作業大隊に所属し、いろいろな作業場(貨車で運ばれてくる木材や石炭を降ろす作業、線路や道路の補修作業、その他)に送られていた。重労働のわりに非常に食事の量が少なく大変な作業であった。
 私は収容所内では捕虜であると同時に医師として働いていた。加藤将校は非常に痩せていて病気にかかっているようであった。ボロボロの衣服を着て破れた靴を履いていた。自分の体を動かすことさえ苦しそうであった。彼は50歳ぐらいに見えた。とても親切で教養の高い人物であった。彼ともう一人のウクライナ人捕虜イヴァン・グラバル氏はとても親しくしていた。グラバク氏のおけげで私は加藤将校と知り合いになった。私たちは加藤将校が弱ってきたのをみてなんとか救おうとした。体力が落ちてくると赤痢などの伝染病に感染し、後は死ぬだけになってしまうと考えたからである。私は私と同様に捕虜であり医師であった他のウクライナ捕虜(ソログバ氏、フェルドゥシェル氏、ザトゥフォルスキー氏)の助けを借りて収容所内の病棟バラックに彼を入院させた。彼は一ヶ月間この病棟にいて体重が少し戻り、体力もわずかに回復した。体力が回復すれば通常は再び作業大隊に組み入れられて元の屋外での重労働を強いられるにであるが、加藤将校を助けるために私たちウクライナ人捕虜は協力して屋内作業である洗濯部門に回してもらうようにチャイカ氏(洗濯部門の捕虜責任者)に働きかけた。屋内とはいえ重労働に変わりはない。ただ一つの救いは零下何十度の屋外の寒さからは逃れることができたということだろう。
 他の捕虜が亡くなった時、または重病で自分の割り当てのパンを食べられなかった捕虜のパンをもらって私は加藤将校を分け合って食べた。加藤将校はお礼にといって私たちの衣服を自ら洗濯してくれた。
 彼は日本や日本の生活習慣や祭り、文化についてたくさんの話をしれくれた。


【その6】ストリー市のヴァシリ・ニコリシン氏の証言
 

 私は元強制収容所の捕虜として次の通り証言する。ノリリスク地方のあらゆる強制収容所で1953年に捕虜の暴動が発生した。当時、私は第5収容所に抑留されていた。この暴動の解決は私たちの人生の終わりを告げていた。翌朝9時に抑留されているすべての日本人捕虜を収容所の敷地内から外へ出すようにとの命令が暴動委員会から私に下ったのは暴動前日の正午だった。私はその日、収容所の秩序を保つことが任務として与えられた。私はすぐ他のウクライナ人捕虜と一緒に収容されていた日本人のバラックに行き、彼らの将校に会って言った。『明日は私たちは皆、射殺される。モスクワからベリア・パヴォビッチ(KGBの長)の特使としてクズネツォフ将官が來ている。そして私たちの命は彼の決定次第であると言っている。従って私たちウクライナ人捕虜は日本人を明朝9時に外へ安全に誘導すことを決心した。もしあなた方が生き延びたら、ウクライナ人の捕虜がなぜ暴動を起こしたか、またその結果射殺されたという事実を世界に伝えて欲しい。』
 これに対して日本人将校は私に向かって片言のロシア語で言った。「ヴァシャ、私は日本人捕虜の仲間とこのことについて相談したい。」そうして、彼は300人の日本人捕虜を集めた。彼らは日本語で話し合った後、近づいて來て言った。「ヴァシャ、私たちはどこにも行かない。あなた達と一緒に死ぬ。」私たちはこの返事を聞いて非常に驚いた。なぜなら、この状況の中で誰もが生きることを望んでいるはずであると思っていたから。私は、「そうであればあなた方に感謝する。と同時に今からあなた方は暴動委員会の命令に従わなければならない。」と言った。私たちは日本人と一緒にバラックから出て有刺鉄線のバリケードを守る担当の所に行った。バリケードの一部200メートル区間の警備を日本人が担当することになった。日本人は立派にこの任務を果たした。翌日、ソ連軍の攻撃が開始され、捕虜の射殺が始まった。その後、私は逮捕されクズニェツォフ将官からの取り調べを受けるために送られた。日本人の消息はまったく分からなかった。


【その7】サンビル市のミコラ・コスティアック氏の証言
  

 1945年末から1948年の初めにかけて私はタイシェット地方にある収容所に収容されていた。日本人将校トゥロタ(鶴田?)は肺炎のため私と一緒に病棟のバラックに入院していた。彼はとてもまじめで収容所の辛く厳しい状況にもかかわらず、いつもにこやかだった。彼はロシア語が分からなかったので私たちは身振り手振りを交えて会話した。
 彼の病気は悪化し始めた。食事は貧しい内容であり、治療のための薬品も無かったので、1946年3月に亡くなった。


【その8】ピドウビリア村のペトロ・コヴァリシン氏の証言
  

 1947年から1949年までクラスノヤルスク地方の第9収容所フェショティ駅付近のポーカイノフカ村に収容されていた。私が所属していた作業大隊の第39班に10年の刑を受けていた1921年生まれの日本人「スガノ」氏がいた。私たちは木材の伐採場で働いていた。他の班にはたくさんの日本人がいた。そしてまた多くの日本人が亡くなった。


【その9】ニジュニャ・リピツァ村のアンドリ・ウニツキー氏の証言
  

 私は1949年から1950年の間にイルクーツク地方のタイシェットの近くの第6収容所ビホロフカ駅付近に収容されていた。ここにチャン・チュ・ヤンという名の日本人軍人が連行されてきた。私たちは線路をつくるための土台をつくっていた。しばらくしてから私は他の収容所に連行され、上記の日本軍人が残った。


【その10】サンビル市のイヴァン・クルティアック氏の証言
  

 私は強制収容所で日本人と出会ったことを証言する。1950年から1951年にモルドバの第7収容所に収容されていた。この収容所にはたくさんの日本人捕虜がいた。彼らの一人「タキ」氏は私と同じ班で働いていた。私たちはラジオを製作する工場で働いた。彼は日本軍の将校だった。とても教養高く、正直で、そして非常に思いやりがある人間であった。


【その11】カルシュ市のイヴァン・クルチツキー氏の証言
    

 ノリリスク地方に「国家の反逆者」のためにたくさんの収容所があった。そこに長い懲役刑の捕虜が収容されていた。この上に1948年にスターリンとベリアの独裁体制によってゴルラグ(国家特殊強制収容所)がつくられた。このゴルラグはいくつかの収容所から成り立っていた。1948年の10月の時点でこのゴルラグの第4収容所には4500人の「政治犯」が収容されていた。1949年の7月までにこの内の1500人が飢えと極寒の中で亡くなった。
 第4収容所はいくつかの作業大隊に分けられていた。私が所属していた作業大隊には50人の「政治犯」が含まれていた。この内訳は次の通りである: ウクライナ人37名、ロシア人5名、リトアニア人2名、ラトビア人1名、エストニア人2名、グルジア人1名、朝鮮人1名、日本人1名。私は皆の心にとても深い印象を残した「マツモト」という日本人について述べたい。
 1954年モスクワから彼の捕虜生活の終わりを告げる知らせが届いた時、彼は初めて私たちに自分のことを話し出した。彼は満州の知事の指名によって高い地位についた。彼は電気技師であり、また法律の博士号も持っていた。彼の捕虜生活最後の日に収容所当局は彼に所持品(時計、家族の写真、いろいろな証書類、靴、洋服)を返した。彼はその時初めて妻や子供そして両親の写真を皆に披露した。一番興味深かった写真は彼の着物姿であった。彼はインテリで高い教養の持ち主であり、人間関係が上手な人だった。捕虜生活の間にすてきな思い出をたくさん残してくれた「マツモト」さんと別れることは非常に辛かった。もし日本でまだお元気でいらっしゃるなら、彼と彼の家族にぜひよろしくと伝えて欲しい。またぜひ元気で長生きしていただきたい。


【その12】ロハティン市のオレクサンドル・ボレヒフスキー医師の証言
  

 私はウクライナのスタニスラフ市で1947年6月15日に逮捕され、モスクワで1948年2月14日にUPAのメンバーとしてソ連の法律54−1A条及び54−11条のよって『国家反逆者』と見なされ、収容所に送られた。初めての収容所はシベリアのカインスク市にあった第7収容所であった。私は捕虜でありながらも医者としての勤めを命じられて病棟で働いていた。この収容所にはいろいろな国籍の捕虜がいた。この中には日本人、中国人、朝鮮人の捕虜もたくさんいた。隣接する女性収容所にもまた様々な国籍の捕虜がいた。日本人の診察をする時はロシア人捕虜が通訳となった。私もいくつかの日本語をこの時覚えた。例えば「病気ですか?」や「腹が痛い」など。
 1949年の夏に私は他の捕虜と一緒にトラックでレショティ駅まで連行され、そこからNKVDの警備のもとで貨車に乗せられ、タイガの奥深くにあるギロフ村の第3収容所に送られた。この収容所には2000人近くの捕虜がいた。ここは外から見えないようにするため収容所は周囲を板塀で囲んであり、さらにその内側は二重の有刺鉄線で囲まれていた。監視塔には銃を持った見張りが付き、24時間監視されていた。特別な訓練を受けたシェパードがいた。
 私は再びここで病棟の医師として働くよう命じられた。病棟長は「マツオ リンジ」という日本人の捕虜医師だった。マツオ軍医は背が低く、丸顔で黒い髪であった。私(1925年生まれ)より年上だった。とても明るい性格の人だった。捕虜になる前は関東軍の軍医だったとのことであった。私とマツオ軍医は同部屋だった。このおかげで私たちは友達となった。その時彼はすでにロシア語に不自由はなかった。またウクライナ語の簡単な単語や表現を理解することができた。驚いたことにマツオ軍医はいくつかのウクライナ語の歌をウクライナ人捕虜から習って知っていた。またウクライナの歴史についても非常に興味を持っていた。彼は私にカタカナとひらがなを教えてくれた。残念ながら、漢字にまではいたらなかった。今でも私は彼の日本の住所を覚えている。それは次の通りである。九州、熊本県、ヤマガシ。
 マツオ軍医と私はこの収容所で1年間一緒に働いた。その後、私はタイガの更に奥地の第12収容所に移送された。そこから次は1951年カザフスタン共和国のバルハシ市に有った「政治犯」の特殊強制収容所に送られた。1955年5月に私は8年の刑を終えてウクライナに戻り、外科医として退職まで働いた。
 親愛なる友であるマツオ医師、あなたはスターリンのラーゲリから生きて出られただろうか。あなたの愛する日本の九州に戻ることができただろうか。もしそうであったら、私たちが一緒に収容所で祝ったクリスマスの時に歌ったキャロルと歌を思い出してくれませんか。今あなたはどこにいるのだろうか。もしこの手紙があなたに届けられたら、あなたが生きてお元気であることを知らせてほしい。昨晩私はウクライナ・テレビで九州を襲った台風のニュースを見ました。大変でしたでしょう。お元気で。



5. むすびに

 いままで述べた事柄は問題提起にすぎない。今後この問題をより深く研究する必要がある。特に今回の調査にあたって気づいたことは捕虜あるいは死亡者の正確な数値や収容所のおかれた場所についての記述が資料によって様々であり、必ずしも一致しないという事である。いずれの場合も基礎となる数値や記述の根拠が非常に曖昧な点が少なくない。従ってデータを鵜呑みにすることは危険であると思われる。
 このテーマの解決のためには、独立国家としてのウクライナ政府の協力が必要不可欠である。なぜならウクライナにもたくさんの日本人収容所があったからである。その場所は次の通りである。ヴォズネセンスク、ニコラーエフ、キエフ、クレメンチェフ、ドニエプロペトロフスク、ザポロジェ、ドネツク、タガンログ、ハリコフ、イジェム、スラヴィヤンスク、クラマトルスク、アルチョモフスク、ヴォロシロフグラード、ルガンスク、スヴェルトロフスク、ロストフ。これらの場所に収容された日本人捕虜の数はほとんど明確にされていない。また公開された資料によればウクライナにあった収容所で亡くなった日本人捕虜の数が215人(タガンログ:7名、アルチョモフスク:160名、ザポロジェ:46名、ドニエプロペトロフスク:2名)というのはいかにも少なすぎる。それだけではなく収容所の数そのものにしても上記の場所以外に収容所が存在していた可能性もある。先の215人の墓地については埋葬者名簿によって一部把握できるが、現在その墓地がどのような状況にあるのかはまったく不明である。
 従って、ウクライナ政府はこの問題に関して把握しているすべての情報を提供してほしい。特に古文書館(アールカイヴ)に眠っている資料を正式に日本側に公開してほしい。また、日本側からの研究者に対してはこのような古文書閲覧など、この問題を解決するための研究活動に配慮してほしい。これだけではなく、墓地の整備をお願いしたい。最後に遺族や関係者の墓参に際しては最小限の手続きで簡単に実現するように協力してほしい。





参考文献




朝日新聞社編 『アルバム:シベリアの日本人捕虜収容所』 朝日新聞、1990年

シベリア抑留記念館 『鎮魂 - シベリア抑留歴史展』 終戦史料館出版部、1993年

「鎮魂シベリア - 抑留死亡者四万人名簿(完全地区別)」 月刊Asahi, vol.3, no.8, 1991.

斉藤六郎著 『回想のシベリア - 全抑協会長の手記』 全国抑留者補償協議会、1988年

高杉一郎著 『極光のかげに - シベリア俘虜記』 岩波書店 1993年

川越史郎著 『ロシア国籍の日本人の記録 - シベリア抑留からソ連崩壊まで』 中央公論社 1994年

『シベリア強制労働補償請求訴訟東京地裁判決』 全国抑留者補償協議会

若槻泰雄著 『シベリア捕虜収容所 上・下』 サイマル出版会 1979年 

横山周導著 『シベリア日本人墓地 - 四十余年放置されたままの土まんじゅう』 1994年

『収容所地名索引簿』 昭和26年7月1日 留守業務部

『全抑協総員名簿 1984』 全国抑留者補償協議会 1984年

ウクライナ人元捕虜の証言(手紙)


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