箕輪初心▼箕輪城108「石神砦」=抜鉾神社の鰻神社伝説

私の通勤途中に高崎市菊地町の菊地団地の北西に抜鉾神社がある。
戦国時代、抜鉾神社は箕輪城主:長野業政の支城「石神砦」であった。
この抜鉾神社には、鰻伝説がある。「うなぎは神様。食べるとたたりが
ある。ばちが当たる。」という伝説である。高崎の昔話にも、「うなぎを
食べない村」とある。


 (左の森が抜鉾神社・右は御神池)

【1】 鰻を食べない村の鰻伝説
● 群馬県高崎市菊地町の抜鉾神社





●鰻伝説の案内板がある。


ちょっと、要約しながら、適当にアレンジしてみた。

「昔、和田山(高崎市箕郷町)に和田氏の隠れていた所に松本
三右衛門という人がいた。・・・特に、抜鉾神社を信仰していた。
天然痘(ほうそう)が大流行した時、この地に住む松本
三右衛門という農夫の二人の子どもが天然痘にかかってしまった。
病状は悪化していった。・・・・抜鉾大明神を信仰している三右
衛門は神にすがるしかなかった。看病に専念していた。
うとうとしていると、夜、夢をみた。夢の中に老翁は出てきた。
『わしは抜鉾大明神の化身なり。お前の平素の心がけ、非常に感
心している。されば、お前の二人の子どもの難病=天然痘を鰻を
代わりとして治してあげよう。』
みたいなことをいって消えた。
そこで、三右衛門は目が覚めた。

それから、幾日か過ぎて、流石の重病も癒えて・・・
快復に向かっていた。ただただ、驚くばかりであった。
不思議というしかなかった。・・・

ある日、鰻売りの男が来た。
三右衛門は鰻を買い求めた。生きている鰻を殺すには忍びない。
そこで、竹筒に飼っていた。

ところが、子どもは軽くなり、白いボツボツもなくなって来るのに
つれて、鰻の体に白い斑点が増え、天然痘にかかったようになった。

子どもが全快する頃には、鰻は重い天然痘の様相を呈したという。

・・・天然痘を神様がうなぎを身代わりにして病気を治したという
噂が広がっていった。参拝者も次第に増えていった。

ある時、あまりの賑わいに、氏子の子ども2人が、群衆から押し出
された。そして、田んぼに転げ落ちた。・・・
ヒエ(稗=イネ科、昔は人が食った。今は小鳥の餌。)の切り株が
目に刺さった。・・・子どもに激痛が走った。
・・・氏神様の池で子どもの目を洗うと、痛みが無くなった。
誠に霊験あらたかといわざるをえなかった。

その後、鰻はみな片目がつぶれていた。
このことがあってから、村人はヒエを作らなかった。

そして、その後、天然痘が流行する度に、白い斑点を身体中につけ
た鰻が川で死んでいた。これを見た村人は鰻が身代わりに病んでく
れたのだと信じた。
さらに、鰻への信仰が深くなっていった。
そして、鰻を食べず、氏神様の池=御神池に鰻を奉納した。」

という伝説である。



●本殿から東に30mの場所に森がある。
 この森が御神池のある所である。

御神池は森の陰にひっそりとしている。
夏場はたくさん水がある。

冬場は水源は枯れてしまっている。

菊地町での鰻の神様信仰はすたれてきてしまっている。しかし、今でも
伝説は残っているので、抜鉾神社の氏子の中には。未だに「ウナギ様」
といって、鰻を口にしない方がいらっしゃるようである。私の職場でも、
菊地には食べない人がいるという話を聞いた。
平成25年(2013)7月、菊地町区長さんが
「父は1回も食べたところを見たことがない。
 たぶん、たべなかったのでしょう。」
と話しておられたというの話を聞いた。




【2】 【石神砦→抜鉾神社】
*戦国時代、抜鉾神社のある場所は長野業政の家臣の砦=石神砦
 であった。
 (★「群馬県の古城塁祉の研究:山崎一著)

 ★箕輪城の長野氏の時代には、石上神社は3つある。しかし、
 個人的には、ここは4つ目の石上神社になったと考えられる。
つまり、長野氏の氏神:石上氏・武神:物部氏の関連があると
いうことになる。


武田信玄の箕輪城支配の時代以降に、村社「抜鉾
神社」となったのではないだろうか?


 ※現在 抜鉾神社は高崎市小塙町の烏子(すないご)稲
荷神社の末社である。

  古墳時代、稲荷山古墳が造られた。
   670年の榛名山の爆発以降の古墳である。
  平安時代、東山道がここを通っていた。
   義経道という伝承が残っている。
  戦国時代、烏子(すないご)稲荷神社にも砦であった。
  八木氏が砦の主であった。稲荷古墳の上が楼台が
  あったと考えられる。
  武田信玄の時代には、上杉謙信を裏切った大熊
  一族が入った。(★生島足島神社に記録がある。)
  その後、浦野一族が入ったと考えられる。
  







【3】 和田氏&松本氏
高崎市箕郷町の和田屋敷(★堀内自動車西:松本隆氏宅)
 抜鉾神社から北北西2kmの所にある。


・鎌倉時代・・三浦一族の支流:三浦半島:新井城:和田義盛
 は鎌倉幕府の初代侍所別当を務めていた。・・・
 治承・寿永の乱では源範頼の軍奉行となり、九州で活躍した。
 平家滅亡後は奥州合戦に従軍した。
 源頼朝の死後、梶原景時の変で、梶原景時を追放した。
 比企能員の変や畠山重忠の乱などの御家人の乱では北条氏に寄
 与した。
 しかし、二代執権:北条義時の挑発を受け、幕府軍を相手に
 戦うが敗死し、和田一族も滅亡した。〜〜〜〜〜 
 和田氏の子孫は上野国(群馬)の高崎市箕郷町に逃れた。

・室町時代中頃、和田氏は高崎の赤坂の庄(高崎市赤坂町&和田
 町)に移った。和田城は烏川ぞい和田橋東の立体交差付近に
 あった。
 これに伴って、和田氏は和田館に家臣:松本氏を住まわせた。


・戦国時代 和田業繁は箕輪城主:長野業政の娘を貰った。
 しかし、武田信玄の上野侵攻は続いた。
・永禄5年(1562) 6月に武田信玄に降伏。
  武田信玄の家臣となった。
  武田信玄から上野先方衆として騎馬30騎を与えられていた。
・永禄9年(1566)武田信玄は箕輪城を9年がかりで攻略した。
 箕輪城を本拠とし、16年間、西上州に君臨した。
 和田館には、清水氏が入った。
 和田館には、和田氏→松本氏→清水氏(武田信玄の時代)→
 松本氏と入った。


・天正3年(1575年)長篠の戦い  
  和田業繁が戦死。
  家督を婿養子:和田信業が継いだ。
 和田信業は武田氏の譜代家老:跡部勝資の子である。

・天正10年(1582)3月、織田信長&徳川家康の甲州侵攻
   武田勝頼が自刃。・・武田氏が滅亡。
   和田信業は北条氏直の家臣になった。
   直後、織田信長の家臣:滝川一益が箕輪城に入部。
   厩橋城にて西上州を領有した。
  織田氏の家臣となった。
  6月 本能寺の変・・・織田信長が死去。
   神流川の戦い
    滝川一益もで敗走。・・・清洲会議に遅刻。
   再び北条氏直の家臣となった。
・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃
   和田信業は小田原城に籠城。・・・
   以後は各地を放浪〜〜〜〜〜
嫡男:和田業勝が家督を継ぎ、子孫は会津若松藩主:
   保科氏(松平氏)の家臣として仕えた。



【4】長野氏関係の300m以内の砦
長野郷と呼ばれている地区で、抜鉾神社から東へ
 1,2kmが浜川館で、長野業政の身内が住んでいた。
 210m×130mの館である。


1)井野館・・・北北西150m。高崎市楽間町
  井野一族の館

(★楽間の宝きょう印塔・・・箕輪城関係の墓)

2)住吉館・・・南南西200m。高崎市沖町
  ★郵便局&東隣。長野堰が通っている。
  武田信玄との戦いで。ここから出撃。

3)我峰館・・・南南東300m。高崎市我峰町


4)北新波の砦300m東。高崎市北新波町

 

 ・満勝寺砦・・・満勝寺は家紋が武田菱である。
 
 ★2013年5月、この土塁が寺の改修工事で
  無くなった。


5)○○館・・・東北東200m。高崎市楽間町
※榛名神社のある場所


6)行力3館・・北東300m。高崎市行力町



【5】 抜鉾神社から車で5分で行けるグルメ店

1)三喜屋・・・蕎麦・うどんなどのランチ定食が安い。


2)トマト・・・垢抜けたスパゲッティのイタ飯屋


3)麒麟亭・・・TV放映された増田牛の店。





★この地区のレストランは、私の行動テリトリーなので、
  名店をたくさん知っている。しかし、あげきれない。



★明日は未定。

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