京都史蹟散策120 北野天満宮の全貌 5(宝刀展)

京都史蹟散策120 北野天満宮の全貌 5(宝刀展)

本編は、2016年春から2017年初冬までの
期間にわたり、取材したものです。

楼門を潜ると、参道が二つに分かれ、その中央部の
囲いの中に
○徳光衣城句碑 がある。


【石碑】
(表面)
      衣城
ゆふつゝや
 こぼれ
    て
あおき
 花槐(はな えんじゅ)

(裏面は、見えないが)
外套を
 肩 に
新聞記者
 かへる
      衣城

昭和庚戍如月(45年2月)梅花祭に当り
元東亜新報社
社員社友よりなる東亜会社有志並びに俳誌
春聯同人有志徳光衣城氏を偲び建之
  真建子記
       と、ものの本にある。

ゆふづつ、は、夕星・宵の明星・金星のこと。
夕方、西天には宵の明星が輝き、
地上では、槐(えんじゅ)の花が星屑のように
散りばんで咲いている光景を詠んだとされる。
槐(クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの
もとに利用許諾のものより)




楼門を潜ると、右手には、
○日月光の大燈籠があり、


その左側には、
手水舎・梅香水(ばいこうすい)がある。


その後方には、
○校倉(あぜくら)がある。


これは、豊臣秀頼の本殿、再建・慶長12年(1607年)
時期と同じ頃に建立された。
校倉は、三角形・四角形または台形の断面をした木材を
井桁(いげた)に組んで外壁とした倉で、
東大寺の正倉院や唐招提寺(とうしょうだいじ)の宝蔵
・経蔵などが知られる。

その左側には、
●宝物殿(ほうもつでん) がある。



2016年9月25日の宝物殿前。



これは、昭和2年、萬燈祭の記念事業として建築され、
北野天満宮に関わる多くの宝物
(国宝・紙本著色北野天神縁起 8巻
(附 同縁起下絵1巻、梅樹蒔絵箱1合)を始め、
紙本著色北野天神縁起 弘安本 3巻などの多くの
重要文化財)を収蔵し、
毎月25日の縁日・梅と紅葉時期などに特別公開され
ている。



本編では、以下、
2016年1月23日〜3月31日
特別公開・宝刀展(宝物殿)の模様を
抜粋して、少し詳細に掲載しました。
スマホ・ガラ系携帯のみ、撮影可でした。

宝物殿の入口正面を入ると、いきなり、
大鏡がありました。
これは、パンフットに掲載されておらず、
また、その大きさにも驚かされました。



説明文によると・・
1面
銅鋳製
桃山時代 16〜17世紀
京都・北野天満宮蔵
波間に浮かぶ日本地図を背面に表す大型鏡。
台座の刻銘から加藤清正が北野天神に
奉納した鏡であるとの伝承を知ることが
できるが、4個の鈕(つまみ)は清正の家紋・
桔梗折墨紋をかたどっている。

また、もうひとつの説明文によると・・
●日本地図鏡
 青銅製・鋳造
 木瀬浄阿弥作
 桃山時代

加藤清正奉納の鏡で、作者木瀬浄阿弥【1】は
桃山時代から江戸時代にかけて京都で
活躍した鏡師である。
慶長12年(1607)本殿造営に際して、
豊臣秀頼・奉行片桐且元が奉納した
32面の懸鏡(かけかがみ)の作者でもある。
左下の「天下一」の銘が削られている
のは、天下一号の禁令によるもの。
      と、ありました。

【1】木瀬浄阿弥(きせ じょうあみ)
京都の人。
慶長年間の末頃、越前福井に移住し、
子孫が代々、その名前を継承した。
室町末期からは、作者名が鏡に刻まれ始める。
桃山時代では、信長により「天下一」の称号を
許されたものもいた。
後、江戸時代になると鏡師は、全て天下一と称し、
また、殆ど全ての者が京都在住であった。

●重要文化財
1 太刀・銘安綱【2】(号・鬼切丸)別名・(髪切)
 室町末期





【2】安綱は、平安時代中期の伯耆国(ほうきのくに・
現在の鳥取県米子市、倉吉市、境港市、東伯郡、
西伯郡、日野郡に該当する)大原の刀工。
在銘現存作のある刀工としては
三条小鍛冶宗近*と共に最初期の人物の一人。
その作品(太刀 銘)としては、
○国宝 (名物「童子切」)津山松平家伝来、
    東京国立博物館蔵。
○重文 保科家伝来、静嘉堂文庫美術館蔵。
○重文 紀州徳川家重宝、紀州東照宮蔵。
●重文 (号 鬼切) 最上家伝来 北野天満宮蔵。
○重文 島津家旧蔵、文化庁保管。
  などがあるが、この内の●である。

北野天満宮 社報52号によると・・
(前略)中でも、銘安綱(旧国宝)は白鞘で、
長さ2尺7寸9分2厘、国綱と見えるのは、
秀吉の刀狩りのさい、加刻されたものと言われる。
さて伯耆の安綱については、大同年間の人で、
弘仁2年(811)63才歿とあるが、
*三条小鍛冶宗近と共に現存の最古の太刀である。

この鬼切丸(銘安綱)の名については源頼光の
四天王渡邊綱が、一條戻橋で鬼を切ったためとも、
また源頼光この太刀にて酒顛(しゅてん)童子を
斬ったためとも伝えられる。

その後八幡太郎義家が、後三年の役に奥州に
携えて行った源氏の重宝でもあった。
やがて足利代々この宝刀を伝え、豊臣秀吉が
これを徳川家康に贈り、さらに最上家に与えられた。
同氏は足利氏の一族、斯波氏の流れで、
出羽最上郡山形に入部して、最上氏と称し、
義光の時を最盛とし、関ケ原の戦後
山形57万石の領主であったが、その子
義俊の元和8年(1622)内紛により所領を
没収され、近江蒲生郡1萬石に移封、さらに
5千石に削られた。
明治3年に明治天皇の天覧を賜った。
故あって某家が所有したが夜々悪夢にうなされ、
凶事が相ついだため、明治13年10月有志、
原静夫氏他36名の人々相計り当宮に奉納された
のである。
     と、ある。


●重要文化財12 刀 銘于時 
信濃守国広造 桃山時代





説明文によると・・
重要文化財
刀(太刀)
銘 于時慶長十二丁未十一月日
  信濃守国広造 北野天満天神豊臣
  秀頼公御造営之時
身 慶長12年(1607)奉納
拵 桃山時代(1607)

慶長12年(1607)の本殿造営に際し、
豊臣秀頼が奉納した太刀。
刀として重要文化財に指定されたが、近年、
太刀として製作された可能性が指摘されている。
作者の国広は、日向(宮城県)から
下野(栃木県)の足利を経て、
慶長初年(1595) 頃京都へ上り、一条堀川で
工房を構えた。
拵え梅鉢紋と三蓋松蒔絵の衛府太刀が附属
している。
于時(うとき)は、(時に)で、現在、の意。

北野天満宮 社報281号によると・・
(前略) 標記太刀は、御造営の慶長十二丁未
十一月日、信濃守国広造と銘にあり、
片桐且元に命じて竣工した事は、本殿棟札により
明らかである。
金具は各滅金目貫蓋松鞘梨子地松梅蒔絵で、
白鞘(しらさや)付赤地飾袋がある。
長さ75 cm、反り1.41cm、元巾3.27cm、
先巾2.49cm、元重0.74 cm、先重0.58cm、
切先長4.37cm、茎反り0.35cm、茎重0.45cm、
鋳造り、三ッ棟、身幅広く重ね尋常で反りが
浅く、切先は中切先になり鎬(しのぎ)巾
鎬高共に、尋常な造り込み元先の差が少なく、
切先ののびた慶長新刀姿、地鉄は小板目が
よく詰み、細かな地沸が付いて帆立ちサングり
気味で、地色青白く白く冴え、堀川地鉄としては、
最もよく詰んだ肌で、地鉄の上にガラスをあてた
ように澄んだ見事な鉄、刃は中直刃で浅いたれが
交じり、沸(にえ)、匂深く小沸が付く、
物打に鎬(しのぎ)筋にそって土落ちが点々と
している。
また地に沸がこぼれて沸込んだり、小さな尖り
互の目を焼いたりしている。
焼き出しは刃を一つ深く焼き込んで鮮明な焼き出し
映りが立つ。
帽子(ぼうし・切っ先(鋒)部分の刃文)は
表が浅くたれて先はいくらかうつむきごろに
丸く、裏は直ぐで沸こぼれて土落ち状になり、
先は丸く返る。
茎(なかご・刀身の柄に被われる部分)は
生ぶで反りが付き、茎先は刃上がり栗尻になり、
鑢(やすり)目は晩年作の大筋違(おおすじかい)
にかける。
銘は表裏にわけて鎬地に切り下ろす、刃は角冂目釘で
小肉がつき、棟は丸∩目釘穴一個。

さて国広は新刀を代表する巨匠であるが、
日州飫肥
(おび・現宮崎県南部日南市中央部にある地区)
に、田中旅伯の子として生まれ、
田中金太郎と号す。
天正17年ごろまでは、九州各地で鍛刀
(たんとう・刀剣を製造すること)しており、
天正18年になると関東に出て
野洲足利学校打ちを残している。
このころに信濃守を受領したもののようで、
慶長4年以降は京都に定住しており、
慶長19年4月18日京都にて歿す。
84歳であった。(以下略)
     と、ある。


●重要文化財14 太刀・銘常次 鎌倉時代





説明文によると・・
重要文化財
太刀
銘 常次
付 金梨子地糸巻太刀拵
拵 元禄15年(1702)

前田家は菅原氏を先祖にあおいだこともあり、
当宮への崇敬が篤かった。
この太刀は、学芸を重んじたことで知られる
加賀藩五代藩主前田綱記が、元禄15年の
八百年祭に際して奉納したもの。
以来、歴代藩主が五十年祭ごとに太刀を
奉納する習いとなった。

北野天満宮 社報286号によると・・
(前略)常次は古青江鍛冶としては終わりに近く
中青江に変化する変換期の常次であろうと思われ
製作年代の上限が弘長(1261)ごろで、
晩年作と思われ、銘字も鑚が細く、老齢の感あり、
刃長い73.0cm、反り2.4cm、元巾センチ先巾センチ、
元重センチ、切先長センチ、茎長センチ、
茎反りセンチ、茎重センチ、鎬造り、庵棟尋常で
重ね厚く、切先は小切先で踏ん張りがつき、
腰反り高く中間反りに近づきつつ鎌倉末期への
気配が感じられる。
鎌倉中期から末期へかけての移行期の太刀姿、
地鉄は小板目がよく詰んで、細かな地沸きが付いた
力強い鉄で、澄肌が現れ中程までは乱れ映りが
鮮明に立つ、刃文は直刀状の小乱に小互の目が交じり、
刃中に足がよく入って明るく冴え、表裏ともに
物打ちあたりに二重刃三重刃ごころがみられる。
帽子はのたれて沸こぼれ、先は浅く反る。
茎は1.63cm程度磨上げて先を切る。
鑢(やすり)目不明なれど大筋違か?

銘は佩表目針穴に絡めて棟に寄せて細鑚で小さく
切り、角の編は「+」になる。
総金具赤銅七子地金服輪、松梅色絵目釘金鎺
近梅鉢紋切羽四枚柄糸鞘巻帯取緒総浅黄
鞘金梨子地にして、元禄十五年(一七○二)
二十五日、の八百年の大万燈祭に、
参議正四位下行左近衛権中将兼加賀守
菅原朝臣綱紀公の奉納であり、
明治42年9月21日、国宝に指定された。

戦後は重要文化財となり、京都博物館に
出陳された事もある。
    と、ある。


●重要文化財15 太刀・銘備前長船師光 室町時代





説明文によると・・
重要文化財
太刀
銘 備前長船師光(びぜん おさふね もろみつ)
応永9年(1402)
拵 宝暦2年(1752)

宝暦2年八百五十年祭にあたり、加賀藩八代藩主
前田重熙(しげひろ)【1】が奉納した太刀。
室町時代前期に最も多くの刀剣を製作したとされる
長船派の作。
拵えは、○の記などから奉納に際して、
金沢で新調されたと考えられる。
【1】前田重熙
幼名は亀次郎、初名は利安(としやす)、後、
将軍・徳川家重より偏諱(へんき・かたいみな)を
賜り、重煕に改名。
この頃、加賀藩では、父・吉徳が亡くなり、
その後ろ盾をなくした大槻 伝蔵が失脚し、
寛延元年(1748年)配所にて自害。
いわゆる加賀騒動の最中、この太刀の奉納の
翌年、宝暦3年(1753年)、重煕は25歳で
亡くなる。

北野天満宮 社報287号によると・・
代々加賀前田家は大万燈祭に刀剣を奉納されているが、
宝暦2年(1752)2月25日、前田家八代藩主参議
正四位下行左近衛権中将兼加賀守菅原朝臣重熙も、
備洲長船師光、応永9年(1402)作を奉納している。
師光は倫光の子で、盛光の父と云われ、作例には
永和2年(1376)から応永13までのおよそ30年間に
亘る制作年紀を切ったものがあり、刃文は倫光の風を
残して、他の小反鍛冶に比べると幾分ゆったりと
している。
刃長68.4cm、反り1.4cm、元巾2.93cm、
先巾107cm、元重0.77cm、切先長2.65cm、
茎長17.99cm、茎反り0cm、茎重0.84cm、
鎬造、庵棟低めで鎬巾狭く、鎬高が尋常な造り込みで、
身巾尋常で切先が小切先になり、踏張りが付いて
反りの浅い小振りの太刀姿、地鉄は板目に小杢が
交じってよく詰み、細かな地沸が付いて棟よりから
映りが立つ。
刃文は匂出来の腰開き気味になった互の目乱れで、
互の目丁子になる個所もあって変化に富んだ刃に
なっており、やがて完成する応永備前の先駆的な
作風といっても好い。
帽子は乱れ込んで先は尖り気味になって返る。
茎はわずかに磨き上げて先を切っており、
刃、棟丸∩∩鑢筋違、銘を太刀銘に切り、
目釘穴の上から棟に寄せて、細鑚で表裏に分けて
切る。
先の恒次同様、総金具赤銅七子地金服輪、
松梅色絵目釘金鎺
金切羽金四枚赤銅二枚柄糸鞘巻帯取緒
総浅黄金梨子地、
昭和2年国宝に指定、戦後は重要文化財、
京都博物館に出陳。
     と、ある。


●重要文化財17 太刀・銘助守 鎌倉時代





説明文によると・・
重要文化財
太刀
銘 助守(すけもり)
鎌倉時代初期
拵 金平目地鞘糸巻太刀拵
  江戸時代

加賀藩十三代藩主 前田斎泰(なりやす)奉納の
太刀で古備前風の強い作風である。
鎬造、庵棟低く、身巾狭目で重ね厚く、
切先は小切先になり腰反り高く、先が伏きり気味
になった平安末期から鎌倉初期にかけての立姿。

鎬造り、庵棟、細身で腰反りやや高く小鋒。
作風は板目肌流れごころに肌太刀、刃文は
小丁子刃交じる。
助守は古備前派と一文字派とに同銘があり、
いずれも銘振や作風とも似かよっており、しかも
同銘の現存するものは少なく、稔紀のあるものもない
ので、これらの区別は難しい。
この太刀は作風や太刀姿と共にやや古調で、
鎌倉初期頃の一文字派の作と鑑せられる。
江戸時代の刀剣鑑定家本阿彌光純(十五代)
折り紙付。
この太刀には、金平目地鞘糸巻太刀拵がついている。
総金具は赤銅魚子地に松・梅樹文を高彫色絵で
施し、浅葱糸で把と渡り薪を菱巻にし、
鞘は表裏一面平目地にした華麗な作である。
菱型太刀鐔に左記の刻銘があり、
 水野克弘(花押)
 駒井永清(花押)
 水野光和(花押)
 高尾金章(花押)
   嘉永五年壬子二月吉日
これによって嘉永五年(1852)加賀金工師が、
それぞれ分担して作りあげたことが知られる。

加賀前田家十三代藩主の前田斎泰(なりやす)が
当社に奉納したものである。

北野天満宮 社報287号によると・・
・・・刃長70.03cm、反り2.0cm、元巾2.7cm、
先巾106cm、元重0.62cm、切先長2.3cm、
茎長21.9cm、茎反り0.3cm、茎重0.6cm、
・・・刃文は匂出来の小乱の小丁子が交じり
小沸が付いて湯走りのような小さな飛び焼きが
点々とする個所があり、物打は互いの目が直刃状に
なって頭をそろえ、やや焼き刃が広く直丁子風に
なり、足、葉が入る。
帽子は表が少しのたれ気味で、先が小丸に返り、
裏は二重刃を焼いて丸く返る。
彫刻は表裏に丸留めの刀樋をかく、
鑢(やすり)は切鑢で銘は佩表目釘穴の上鎺元の
鎬地に小さく切っている。
磨上げの際の鍵は佩裏に勝手下りにきる。
少々つかれているものの出来がよく好資料である。
    と、ある。


○2 脇差・銘猫丸 



説明文によると・・
脇差
銘 猫丸
付厨子一合(表面左右に「御作」「猫丸御剣」
と金粉銘)
印籠蓋箱(蓋表「猫丸御剣」底裏「西京社人中」
と朱銘)

室町時代末期

備後国三原作と伝えられ、室町時代後期の
菖蒲造りで、茎に「猫丸」と刻印がある。
異風な造込みであるが、彫姿と作風により現在の
広島県三原市の鍛冶による製作と鑑みられる
白鞘に入り、柔在の厨子に安置され、さらに
黒漆塗箱に納められている。
厨子の扉に「御作」「猫丸御剣」と金蒔絵で記し、
また黒漆箱の蓋表にも「猫丸御剣」
底裏には「西京社人中」と朱塗銘がある。
伝説では御祭神の守刀と云われている。
ある日、道真公が壁に立て掛けていたところ、
走ってきた猫が当たり、瞬間に胴体が真っ二つに
切れたところから「猫丸」と名付けられた。
しかし実際にこの刀はそこまで時代がさかのぼる
ものではなく、何時ごろこのような伝承が発生した
のが明確ではない。
明治五年西京社人より奉納されたものである。


○16 太刀・銘 清則作


説明文によると・・
太刀
銘 清則作
  文明十八年八月
付 金平目地鞘糸巻太刀拵
室町時代

備前国の吉井清則作で年紀から見ると
室町後期の刀工であったことが知られる。
吉井系の最末鍛冶である。
加賀藩十一代藩主 前田治侑(はるなが)が
奉納したものである。

北野天満宮 社報287号によると・・
太刀、銘清則作は文明10年(1478年)とあり、
同じく享和2年(1802)2月25日、
参議正四位下行左近衛中将 兼 加賀守菅原朝臣治侑
の奉納である。
出雲の四代目 道永清則は、初代の道永と号した。
清則が吉井派の吉則の子で、備前と出雲の双方に
清則の名跡がつづいているが、作風上は備前吉井と、
出雲道永の区別がつけ難く、備前の吉井清則もやはり
文明頃まで鍛刃しているので、備前と出雲双方の
頻繁な交流が考えられる。
道永流の清則も備前と同じく文明以降は
あまり作例を見ない。 
刃長72.4cm、反り1.98cm、元巾2.88cm、
先巾1.87cm、元重0.72cm、切先長2.72cm、
茎長20.9cm、茎反り0.2cmm、茎重0.77cm、
鎬造り、庵棟低く、身巾重ね尋常でわずかに
踏張りがつき、鎬巾狭目で鎬高尋常な造り込みで
腰反りに浅い先反りが加わった、反りの太刀姿。
地鉄は板目に杢が交じって地沸がつき、肌たって
所々肌が流れる。
鎺の上六寸程は棟よりから白気気味に淡い映りが
立ち、鎬地は板目に流れ心がある。
刃文は匂出来の互の目乱れで腰が開いて小丁子が
交じり、乱れの谷に沸のつくところや、焼頭から
地に沸のこぼれるところがある。
          と、ある。


○頬当(ほおあて)


頬当は室町時代中期以降の具足についているもので
頬から顎にかけて下げという兜でいえば
「しころ」にあたるものが下がって咽頭を守る。

○黒漆五枚胴具足


江戸時代
【京都市指定文化財】


●豊臣秀頼奉納絵馬


紙本金字着色 曽我直庵筆
桃山時代
慶長15年(1610)

豊臣秀頼が奉納したもの。
絵馬に見える「松」の字は秀頼の直筆と
伝えられる。
作者 曽我直庵は、当時堺を中心に活躍していた
絵師であり、代表作に「鶴図」(重要文化財)
がある。

 (北野天満宮の全貌6 に続く)


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