大東亜戦争を続けた男たち…歴史紡ぐベトナム行幸啓

新設された士官学校の教官は全て皇軍兵士だった。1954年まで続いた大東亜戦争と失意の独立運動家。天皇・皇后両陛下のベトナム行幸啓が、分断された日越近代史をひとつに結び付けた。

「鳥のまさに死なんとするやその声哀れなり。今すでに死を距ることはなはだ近い。五千万凄々哀鳴の声、諸君の耳に入らざるか」(潘佩珠『天か帝か』)

「フランス人は、我々ヴェトナム人を禽獣同様に飼育し、そして雑草を見る目で見ようとしているのです」(潘佩珠『海外血書』)
▽両陛下歓迎する越・フエ市民3月3日(地元紙)

後に戦勝国となるフランスは大東亜戦争中、親日国だった。敵国でありながら敵国ではなく、友邦でありながら友邦ではない。奇妙な関係に、我が軍もベトナムの志士も翻弄された。

「ベトナム人をあれほど無造作に殺してきたフランス兵が、抜刀して切り込んでいく日本兵の前にただ逃げ惑った」(名越二荒之助編『世界に開かれた昭和の戦争記念館』)

昭和15年(1940年)9月、援蒋ルート監視団の派遣をフランスが受け入れたことで、我が軍は仏領インドシナ北東部に陸軍部隊を展開された。いわゆる仏印進駐である。
▽仏印に入った陸軍の銀輪部隊S16年(file)

その年の6月、フランスはパリを失い、親独派のヴィシー政権が誕生。仏印進駐も松岡・アンリ協定に基づく措置だった。だが、現地の仏印軍は我が軍の部隊に攻撃を仕掛け、一部で戦闘が始まった。

ベトナム人は快哉を叫び、皇軍を迎える。最も喜んだのは、武装蜂起を準備していた「越南復国同盟軍」だった。仏印軍のベトナム兵に離脱を呼びかけ、組織は忽ち6,000人規模に膨れ上がった。
▽南部サイゴンに入る陸軍部隊S16年(file)

しかし、我が国は“枢軸国”フランスの要請を受け入れ、停戦。当初に想定した通りの仏印共同統治が進められる。復興同盟軍は援軍を失い、幹部は総督府に囚われ、即時処刑が断行された。

我が軍の仏印軍制圧は「明号作戦」が発動される昭和20年3月まで待たねばならなかった。前年に独軍のパリ守備隊が降伏し、“親日”ヴィシー政権が崩壊。仏印軍は連合国側の軍事組織に戻ったのだ。
▽仏ラヴァル首相とSS大将’43年

我が軍の本格的な攻勢の前に仏印軍はなす術なく潰走、壊滅。ベトナムを始め仏印3国は独立を宣言するが、我が国の敗戦でそれも幻に終わる。武装解除に応じた皇軍兵士は、連合国による復讐を恐れた。

ところが、現地で始まったのは、三者による予想外の皇軍兵士争奪戦だった。南部に派遣された英仏軍、北部に進駐した国府軍。そして、ベトミン(ベトナム独立同盟)である。

(筆者注)本エントリは規格外の長文です

【ハノイを埋めた日章旗の燦然】

天皇陛下・皇后陛下におかれては2月28日、ベトナムの首都ハノイにご到着された。1週間に渡るベトナム・タイ行幸啓。度重なる御招待の要請の経て、この度、初のベトナム御訪問が実現した。
▽ベトナムに向け御出発2月28日(代表撮影)

「私どもの訪問が両国の相互理解と友好関係の更なる増進に資することを願っております」

天皇陛下は御出発に先立ち、そう述べられた。ハノイの空港では国家副主席夫妻が出迎えた他、御宿泊先に至る道のりは日の丸で埋め尽くされた。
▽ハノイ空港に御到着2月28日(代表)

天皇陛下・皇后陛下は翌3月1日午前、国家主席府での歓迎式典に臨まれた。両国の国歌吹奏に続く、儀仗隊の栄誉礼。案内するのは、チャン・ダイ・クアン主席夫妻だ。
▽主席府の歓迎式典に臨まれる3月1日(代表)

「両国の交流の長い歴史を振り返りながら、お互い、より良い国を作る為に努力していくことが重要だと思います」

天皇陛下は、そう仰せられた。社会主義国家の中枢で御会談が催されたことは意義深い。歓迎式典に続き、両陛下はホーチミン廟を詣でられ、供花された。
▽ホーチミン廟にて御供花3月1日(代表)

「歴史を辿ると8世紀には,当時我が国の都であった奈良で大仏開眼の儀式が行われましたが、その際、現在のベトナム中部にあった林邑の僧侶・仏哲により舞が奉納されたと伝えられています」

公式行事のメーンとなる晩餐会で天皇陛下は、古くからの日越交流に触れられた。林邑とはチャンパ王国のことで、雅楽として残る林邑楽は、ヒンドゥー文化の強い影響下にあった。
▽国家主席主催の晩餐会3月1日(代表)

そして御到着3日目となる3月2日、今回の行幸啓で最も注目された御対面が行われた。ハノイの最高級ホテルに招かれた15人の一般庶民。皇后陛下は膝を折られ、その手を握り締められた。

大東亜戦争の終結後、ベトナムに残って独立戦争を戦った皇軍兵士がいた。招待されたのは、その妻や子供たちだった。

【大東亜戦争のアンコールが聴こえる】

「陛下がベトナムに来られることを嬉しく思い、頑張ってここに来ました。お心を懸けて下さり、とても感動しております」

90歳を超えたグエン・ティ・スアンさんは、言葉を絞り出すように言った。夫の清水義春氏は、終戦時に部隊を離脱し、ベトナム独立戦争に参加した皇軍兵士の1人である。
▽元皇軍兵士の妻らと御対面3月2日(代表)

「本当に大変でしたね」

天皇陛下がお声を掛けられると、スアンさんの目には涙が溢れた。夫の復員後、彼女は女手一つで子供を育てたという。元皇軍兵士遺族らとの感動的な対面は、予定時間を大幅に超え、1時間近くに及んだ。
▽ご対面後に印象語るスアンさん3月2日(代表)

大東亜戦争終結後、ベトナムでは陸軍を中心に600人を上回る皇軍兵士が独立戦争に加わった。多くは士官・教官として軍事指導に当たり、うち約300人が新たな戦場で散華された。

ベトミンに助けを請われた者も含め、大半は自ら志願して独立戦争に参じたのだ。陸軍第22師団所属の松嶋春義一等兵は、再び戦場に赴いた動機を、こう語っている。

「あれは大東亜戦争の続きだった。ベトナム人を見殺しにして、おめおめ帰国できるものか」
▽ベトミンに参加した清水義春氏の写真2月(ロイター)

陸軍第55師団(壮兵団)の参謀部付将校・石井卓雄少佐は、アジア諸国の解放戦争参加を「職業軍人の責務」と考え、プノンペンから士官を連れてベトミンに合流。その際、召集兵には帰国を促した。

敗戦前から参戦を決意していた将校もいた。第34独立混成旅団の参謀・井川省少佐は、フィリピンやビルマ同様、仏印でも旧宗主国が再統治を始めると予見。密かにベトミンとの連携を進めていた。
▽独立戦争に挑んだ井川省少佐(file)

終戦に伴う武装解除は、「明号作戦」で鹵獲した仏印軍武器も提出の対象だった。そこで井川少佐は、保管庫の施錠をわざと外し、ベトミン兵に略奪させた。

また井川少佐は歩兵操典など我が軍のマニュアル本の翻訳にも取り組んでいた。陸士47期の井川少佐は、唯一フランス語が必修の騎兵科で学び、和仏訳も容易かったのだ。
▽草創期のベトミン兵士(file)

第1次インドシナ戦争が勃発する半年前に、井川少佐は待ち伏せした仏軍部隊によって部下のベトミン兵と共に散華される。享年33。だが、少佐の残した仏訳操典が独立戦争に多大な影響を与えることになる。

【士官学校の先生は戦場に行った】

井川少佐散華直後の46年5月、中部の要衝にベトナム史上初の士官学校が産声を上げる。独立史に燦然と輝く伝説の「クアンガイ陸軍中学」だ。教官は全て皇軍兵士、教練は日本陸軍式だった。

「クアンガイ陸軍中学」は、井川少佐の腹心だった中原光信少尉が遺志に基づき、ベトミンの参謀総長に進言して創設されたと伝わる。文武に秀でたベトナム人400人余りが、ここで実践的指導を受けた。
▽今も教練施設がクアンガイに残る

同じく教官に招かれた谷本喜久男少尉は、明号作戦で活躍した「安機関」のメンバーで、陸軍中野学校卒の情報将校だった。肩書きは教官だが、実際はベトミンの軍事顧問だ。

壮兵団の参謀・石井少佐は、中南部の「トイホア陸軍中学」の教官として着任した。各地で一斉に日本式の英才教育が始まった矢先、仏軍との戦闘が本格化し、皇軍兵士は勇躍、激戦地に赴いた。
▽壮兵団参謀部付将校・石井卓雄少佐(file)

「’50年の歴史的な国境解放戦役の序章となったドンケ攻略戦、翌年ホアインモー攻略戦など多くの敵拠点で我が方に勝利をもたらす活躍をしました」

指導を受けたベトミンの元大佐は、そう武勲を讃える。一方、’54年春の最終決戦「ディエンビエンフーの戦い」で皇軍兵士は後方支援に留まった。野戦砲などを提供した中共軍が嫌ったと言われる。
▽ディエンビエンフーの戦い'54年

中共と北ベトナムの連携が、日本人軍事顧問の待遇に影を落とす。抗仏戦争終結後、石井少佐らは支那大陸を横断して一斉帰国。突然の離任で、妻子を連れて帰ることは許可されなかった。

ジュネーブ協定によるベトナムの南北分断も明暗を分けた。南部に展開していた皇軍兵士らは、遅れて順次帰国。家族を伴って日本での新生活を始めた者もいた。写真家の猪狩正男さんも、その1人だ。
▽父の勲章紹介する猪狩正男さん2月(産経)

母はベトナム人、父は陸軍第2師団(勇兵団)隷下の歩兵隊にいた猪狩和正中尉。「クアンガイ陸軍中学」の教官だ。猪狩中尉は、ある時、ベトナム戦争の映像を見ながら、こう漏らした。

「あの中に俺の生徒がいる」

父の言葉は強く記憶に残ったという。そして父の没後、ベトナムを訪れた際、驚くべきことが起きた。

【対米戦争の英雄に皇軍のDNA】

仙台在中の写真家・猪狩正男さんは’91年、母の祖国ベトナムで写真展を開催した。その会場に、抗仏・対米戦争を総指揮した伝説的英雄ヴォー・グエン・ザップ将軍が現れたのだ。

「日本軍をベトミンに入れたのは自分だ。ファン・ライの息子に会いたかった」

ファン・ライとは猪狩中尉のベトナム名だった。ザップ将軍はホー・チ・ミンの右腕とされる軍人で、「陸軍中学」の教え子ではなかったが、猪狩中尉に敬意を抱いていた。
▽勇兵団歩兵隊中隊長・猪狩和正中尉(家族提供)

抗仏戦争後、ベトミンは北ベトナム国軍に昇格する。’64年に本格化した対米戦争に皇軍兵士が参戦することはなかった。しかし、教え子の多くが将校クラスになり、最前線で戦い、功績を揚げた。

サイゴン陥落の日、大統領官邸に突入した戦車部隊のレ・スアン・キエン総指揮官。そして南の大統領と初めて会見したホー・デー中将…彼らは「陸軍中学」で皇軍兵士に鍛え上げられた生徒だった。
▽サイゴン南大統領府に突入する戦車隊’75年4月

「我が軍の現役・退役将官・佐官と退役上級幹部は、概ね日本人から何らかの教えを受けている」

そこまで言い切る古参将校もいる。記録フィルムでお馴染みの北ベトナム将校が、我が軍のDNAを継承する者たちだったことは当時知る由もなかった。日越の複雑な国家関係が史実に埋もれさせたのだ。

ベトミンを育てた皇軍兵士の顕彰は、ドイモイ政策が進む80年代末になって漸く始ま。90年に来日したベトナムのタク外相は晩餐会に1人の元軍人を招き、関係者を驚かせた。

「この席に昔ジャングルで一緒に戦ったグエン・ミン・ゴックさんがいます。私達は総司令部でも一緒にいましたが、ザップ将軍はよく彼の意見を参考にしていました」
▽ザップ将軍の国葬’13年10月(ロイター)

ベトナム名で紹介された人物こそ、「クアンガイ陸軍中学」の生みの親・中原光信少尉だった。少尉ら教官は’96年に招待を受け、戦勝勲章を受勲。その席で教え子の軍大幹部は、こう謝辞を述べた。

「飢えた時の米ひと口は、満腹時のひと包みに勝る。我々が最も苦しかった時代の彼ら日本人の貢献は何よりも貴い」

ベトナムから第1級戦功勲章などを授かった皇軍兵士は40人超。日越の外交事情で、インドネシア独立戦争で英雄になった皇軍兵士とは大きな差が着いたが、ベトナム側は挽回に向け、努力を重ねている。
▽元皇軍兵士の遺族を労われる3月2日(代表)

同じく我が国でも研究や顕彰は遅れた。それは共産党軍への参加が沈黙の理由ともされるが、証言を紐解く限り、左派思想とは関係がない。ベトナムの密林で大東亜戦争を続けた誇り高き皇軍兵士だ。

そして、天皇陛下・皇后陛下による今回の遺族ご対面を機に、名誉はこの上ない形で回復された。

【極東に真のアジアの盟主あり】

天皇陛下・皇后陛下におかれては3月3日、ハノイから中部の古都・フエに入られた。制服姿の女子学生ら市民が小旗を振って盛大にお迎えした。大河の畔りに王宮が聳える風情あふれた街だ。
▽沿道で両陛下迎えるフエ市民3月3日(地元紙)

ベトナム最後の王朝・グエン朝。明号作戦の後、越南のラスト・エンペラーことバオ・ダイ帝が独立宣言を行ったのも、この地だ。4日、両陛下は旧王宮内で伝統音楽などを御堪能された。
▽旧フエ王宮を御訪問3月4日(代表)

続くご訪問先は、我が国と所縁の深い独立運動の先駆者ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)の記念館。天皇陛下は1日の晩餐会の御答辞でも、強い関心と理解を示されていた。

「我が国の鎖国政策により貴国と我が国の交流は途絶えましたが、20世紀初頭には『東遊(ドンズー)運動』の下、約200名の貴国の青年たちが我が国に留学していたこともありました」
▽王宮内の閲是堂(劇場)にて御鑑賞3月4日(代表)

明治のルック・イースト政策である「東遊運動」を巻き起こしたのが、1905年に来日したファン・ボイ・チャウだ。日露戦争に刮目し、我が国を真のアジアの盟主と見抜いた偉人である。
▽ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)

「とまどっている間に役人はもう紙と筆とを取り出し、村人たちに天を売る証文をむりやり書かせた」(潘佩珠『ヴェトナム亡国史』55頁)

彼の遺した著作は衝撃的だった。絞り尽くした貧村に空を売らせるエピソードが仏植民地の異様な重税を解き明かす。また第1次大戦でベトナム人6万人が欧州戦線に駆り出された事実もこの著作で知った。

【皇軍兵士と先駆者が絆を得た日】

「歴史を知って、現在やこれからの在り方を知るのは大変大事なことだと思います。そういう意味で、この記念館は日本にとっても大事です」
▽ファン・ボイ・チャウ記念館御訪問3月4日(代表)

天皇陛下は記念館で、そう仰せられた。チャウの「東遊運動」は、危機感を強めた仏国の介入で、終わりを告げる。1907年の日仏協約は満州国承認の一方で、ベトナム人弾圧の意図もあったのだ。

静岡の国士・浅羽佐喜太郎翁の支援も虚しく、チャウは広東に逃れた末、1925年に上海で拘束され、終身刑となる。だがベトナム人の猛反発を恐れ、軟禁措置に減刑。送られたのが、王都フエだった。
▽浅羽翁と潘佩珠(前列中央2人)

革命家とも表現されるが、チャウは「勤皇の志士」に近い。我が国滞在中は、グエン朝の王族クォン・デ公と共にベトナム維新を目指した。社会主義国では通常、歴史から抹殺される存在である。

しかし、ベトミンの古参はナショナリズムの先駆者として崇めた。ホー・チ・ミンは1924年に広東でチャウと接触。またホーの父が官吏の職を追われたのは、チャウの著作物を流布した罪だった。
▽若き日のクォン・デ公と潘佩珠(右)

軟禁されたチャウは終生フエで過ごし、1940年10月に没した。我が軍の仏印進駐の1ヵ月後である。チャウは病床で「日本軍来る」の報に接したという。

天皇陛下・皇后陛下は記念館で、チャウの孫にお言葉を掛けられた。孫のカットさんによれば、祖父は志を果たせず、無念の中で他界したという。だが、両陛下の御訪問で考えを改めた。
▽チャウの孫と握手される3月4日(代表)

「祖父は晩年、自分の仕事は全て失敗したと悲しんでいたが、彼の失敗は人々に教訓をもたらした。東遊運動は成功だったのです。陛下が祖父を理解して下さったことを幸せに思います」

幸せに思ったのはお孫さんだけではないだろう。戦後、口を閉ざしてきたベトミンの皇軍兵士も感極まったのではないか…民族独立の旗の下、東遊運動も抗仏戦争参加も、大東亜戦争の本義に連なる。

初のベトナム行幸啓は、完全に分断されていた近代の“二つの歴史”を華麗にリンクさせ、ひとつの大きな流れに纏め上げられた。



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参考文献:
潘佩珠(Phan Bội Châu)著『ヴェトナム亡国史他』平凡社東洋文庫S41年
井上和彦著『ありがとう日本軍』PHP研究所H27年
秦郁彦著『昭和史の秘話を追う』PHP研究所H24年

参照:
□宮内庁HP『天皇皇后両陛下 ベトナムご訪問時(タイお立ち寄り)のおことば』
□東京財団HP『-ベトナム独立戦争参加日本人の事跡に基づく日越のあり方に関する研究-(PDF)』

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