「花燃ゆ」7月12日放送  講和談判の代表

今日のドラマの関心事は、下関戦争の講和談判の代表

長府藩士・三吉慎蔵の家系図をみると、
三吉家初代は、先祖の本国・備後にて城持ちで三吉下総守と名乗る。その孫・三吉政房のときに、備後国から長門長府へやって来て、その子の正則は長府藩主毛利秀元に仕える。
この初代・三吉下総守の弟に、上里周防守広秀がいる。この広秀の10代後には、幕末の時代に、長府藩家老・三吉内蔵介周亮がでている。慎蔵とは親戚になり、幕末の長府藩で、内政・外交・軍事の各方面にて目覚ましい活躍をした人物である。

今回は、ドラマがらみで、あえて活躍しなかったことをあげてみたい。
長府藩家老三吉家文書から、三吉周亮が残した日記を一部、小冊子にまとめた『三吉周亮履歴並日記中摘要』(長府博物館、2013年)をみると、以下のようなことが書いてある。
元治元年8月8日の条に、
「夜中前田孫右衛門・高杉晋作登城シ、毛利筑前より書状来、大膳様思召を以宍戸備前と唱へ、英艦ヘ本使トシテ被遣、副使高杉晋作申合相勤候様トノ事ニ付、三吉内蔵介ヲ唱テナレハ、相勤ヘク、宍戸備前ト唱エル義ハ御断申上候所、遂ニ高杉本使トシテ出張、」
とある。
下関戦争での講和交渉には、宗藩萩藩主・毛利敬親から、講和談判本使として長府藩家老の三吉周亮、副使として高杉晋作が指名された。しかし、周亮は、本名の三吉内蔵介としてではなく偽名の宍戸備前として交渉するのであれば、御免蒙るとしてきっぱりと断ってしまう。その結果、高杉晋作が本使として表舞台に登場した。


江戸時代を通じて、特に宗藩萩藩と長府藩とはしっくりといっていないが、こんな場面にも、防長を構成する宗藩萩藩(長州藩)、長府藩、清末藩、徳山藩、岩国とが幕末でも必ずしも一枚岩ではなかったことがわかる。


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絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です

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