売太神社 ひめたのじんじゃ

 式内小社、旧県社。大和郡山市稗田町にあります。
 祭神は稗田阿礼命を主神とし、天宇受売命、猿田彦命を副えています。「売太」の語源は古事記にいう「比売太」か、または「売比太」のいずれかであるとされ、地元では「ひめた」、または「めた」と呼んでいるそうです。明治時代には「売田神社」と書きましたが、「田を売る」という意味になるのを嫌って昭和17年より「売太神社」に復しました。なお「売」は旧字体では「賣」となりますので、神社関係の資料や古文献では「賣太神社」と表記されています。

 神社は、稗田環濠集落の東南に位置しています。環濠内の道路に面して鳥居と標柱がたっています。



 鳥居をくぐって社務所があり、参道はすぐに左へ曲がって西へ伸びていきます。


 拝殿です。昭和19年の境内拡張ののちに建てられました。


 拝殿内より本殿を拝みます。柱の朱色と白壁のコントラストが印象的です。


 拝殿の横を回っていきますと、塀ごしに本殿の立派な建物が見えてきます。南都春日大社本殿の旧殿を拝領した「春日移し」の遺構の一つとして知られています。屋根が銅版葺きに変わっているほかは、春日大社本殿当時の姿をとどめているようです。部材の様子からみて、もとの第四殿であるように見えますが、詳しいことは分かっていません。


 本殿は、いまは東面していますが、もとは拝殿の北東に南面して建っていました。「古事記」撰上1230年を記念して昭和17年に顕彰会が結成され、昭和19年に境内拡張を行なったのちに現在地へ移されました。旧位置にはいまも石壇と狛犬が残されています。


 この神社の祭神はもとは稗田氏の祖とされた菟上王であるといわれていますが、神社の創祀時期や古文献が知られないため、詳しいことはよく分かりません。弘仁四年(813)の太政官符には、古代の在地豪族であり神社に祭祀の猿女を進貢した猿女公氏のことが記され、神社のことを「猿女田神社」と書いています。これを略して「女田神社」すなわち「売田神社」と書くようになったのでしょう。
 稗田阿礼は猿女公氏の一族で、天武天皇の命により「帝紀」「旧辞」を暗誦したことで知られます。その暗誦内容を和銅四年(711)に太安麻侶が書きあらわして「古事記」が成立しました。

 神社境内地は環濠集落の中にあるため、神社の南と東にはいまも環濠がめぐっています。神社の西側はいま駐車場になっていますが、そこも以前は環濠の一部でした。写真は神社の東側をめぐる環濠で、中世以来の姿をとどめています。


 安土桃山時代の文禄四年(1595)の「稗田村御検地帳」や江戸時代の享和二年(1802)の「村高定名控帳」によれば、神社の周囲に「渡道」「若宮」「西宮」「八王子」などの地名が知られ、かつては神社の祭場や摂末社があったことがうかがえます。また神社の領田も環濠集落の周辺に散らばっていたことが「猿田」「猿樂田」神田「太田」「下司田」などの古字名から知られています。一説では、これらの古字名のうちの「若宮」が神社の旧位置にあたり、中世に環濠集落が成立した時点で神社も環濠内に移ったのだとされています。

 稗田の地は、大和国でも指折りの肥沃地として昔から知られていました。肥沃地のことを古代から中世にかけては「芽生田」と書いて「めふた」と呼びましたが、これが「売田」や「売太」に転じたとする考え方もあるようです。

 境内には末社の春日神社、山王神社、八柱神社があり、八柱神社には神日本武尊、須佐雄命、天鈿女命、赤坂比古命、大己貴命、少彦名命、神波多神、宅布世神がまつられています。毎年8月16日には、童話の神様としての稗田阿礼をたたえる「阿礼祭」が行なわれ、氏子の少女たちによる「稗田舞」が奉納されます。その後に子供たちが「阿礼様音頭」にあわせて円舞を舞い、神輿をかついで稗田町一帯を練り歩きます。

取材日 平成18年5月21日 平成19年6月17日


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コメント (3)
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