渡辺茂夫(天才バイオリニスト)の晩年の40年間の介護

 
この(2012年)6月10日、驚異のバイオリン教師、渡辺季彦氏が103
才で亡くなられた。

 昭和21年(1946年)渡辺季彦、美枝夫妻にもとに美枝の妹、鈴木
満枝の妹と長男の茂夫が同居を始めた。

 もう各所で紹介され、本も出てそれらを繰り返す必要もない、が。

 茂夫の実母の満枝もバイオリニストだったため、養父の季彦は5才
から茂夫にレッスンをほどこしたが、「最初は他の生徒と比べ、ダント
ツの下手さで馬鹿じゃないか、と思った」という不器用さだったが、季
彦の猛特訓に耐え、「一年ほどたって、上達してきた」。

 それが7才で交響楽団と共演のリサイタル、だから驚くしかない。

 8才での名古屋交響楽団との共演では、日記に「交響楽団が全く
、ついてこれないので苦労した」と書くほどだった。

 渡辺茂夫はジュリアード音楽院(NY)に授業料全額免除の破格の
待遇でハイフェッツの推薦で入学。

 バイオリンは人の声に最も近い音を出す楽器という。茂夫の演奏は
門外漢が聞いても、まさに天上からの情感に満ちた、もしや人の声?
ではとさえ思わせる音色、演奏。

 8歳頃か、名古屋交響楽団と共演の際、楽団メンバーだった後述の
若井一朗氏は「いざ、本番、真剣勝負となると、まるで天から神様が
降り立ったようだった」と述べている。

  渡辺茂夫の天才ぶりは米国ジュリアード音楽学院時代の在学女性
(米国人)も「シゲオは現代のモーツァルトだった」と感歎をこめて(番組
で)語っていた。

 さて、渡辺茂夫は当時としては夢のまた夢の渡米してのジュリアード
音楽院入学。だが、この渡米が天才バイオリニスト渡辺茂夫を潰して
しまった。ジュリアードの帝王、イワン・ガラミアンに惚れ込まれ、ガラミ
アン邸(ウェストサイドのマンション)に一室に住まわされた。だが、養父
の季彦に教えられて完成の域の奏法を変えられてしまい、迷路に彷徨
うハメになってしまった、のが最大の不運だった。

この点について、渡辺季彦氏は

 「ガラミアンのように、全て分かっているはずの人が自分の流儀に強
引に変えさせるなんて、彼は結局、本当の芸術家じゃなかったんですね」
と憤懣やるかたない、のである。

 なおジュリアードでガラミアンにバイオリン奏法を変えさせられた被害者!
に桐朋学園大教授のバイオリニストの小林健次氏もいて、番組でコメント
されている。

 米国留学の必要は(あの時点で)、全くなかった。
来日した(1954年)ハイフェッツとの前での演奏が結果として命を奪った。

 クラシックの留学先としてアメリカは何か不適な面がある。ヨーロッパが
当然ベストだが第二次大戦での疲弊が激しかった。

 すでに完成していた奏法を強引に変えられ、生活面でも葛藤が多か
ったようだ。ガラミアン亭を出て一人暮らし、を始めてからは金欠の傾向
が出てきた。

それはまさに経済的な困窮だった。留学に際して渡辺家は三条件の
一つに「アルバイトはしない」を挙げていた。しかしあまりの茂夫の窮状
をみかねたガラミアンは「週三回のオーケストラでのバイト」を提示した。
ギャラは月収75ドルでこれは当時の水準でも安い。

 ガラミアンの紹介したオーケストラは「National Orchestra association」
で全米の演奏家の登竜門だった。

 同時期にジュリアードにいた小林健次もこのバイトをしていたが、この
中では小林、渡辺は抜群の実力だった。

 だが、このオーケストラにJudieという茂夫より年長の可憐な白人の
少女がいた。16才になっていた茂夫はジュディにぞっこんになった。

 茂夫は英文日記で

 「今、ジュディに電話しようかと迷っている。彼女は忙しく、僕のことな
どに構ってくれないだろう。この夏は彼女によく逢えた。そして心を乱され
た。ジュリアードでは同じクラスを僕は繰り返し、幸福ではなかった。言葉
も十分でなく、意思の疎通の出来ず、トラブルが多かった。生活も混乱し
た。他人の感情に悩まされてはいけな(ジュディを除いて)」

 小林健次によれば「確かジュディという少女はいたように記憶しています。
まだ彼女も十代でした。派手でなく可愛い人でした。オーボエだったか、バ
イオリンだったか、」

 ともあれ、この頃の多感な茂夫が他生年上の少女に恋した、のも無理
からぬことだった。だがしょせん、友情としか思っていないジュディは茂夫
の苦しみの原因になった。

 日記「ああ、今すぐ、ジュディに逢えたら、と思う。彼女を忘れられない。
彼女のことで頭が一杯だ。この二日間、誰とも話していない。」ジュディが
いないと寂しくなる。生きる希望を失っていた僕に希望を与えてくれたのだ」

 「この夏、ジュディに逢ったとき、人生で初めての幸せを感じた。だが、今
はそうではない」

 ジュディを知って逆に週三回のバイトが楽しみになった。

米国でも「二十世紀のモーツァルト」、「比べる者もない演奏」と評され
ても、・・・・・16才で終わりました、では悔やんでも悔やみきれない損失
と言うしかない。


 「今の僕の考えは危険なものになりつつある。誰も親身になって気づか
ってくれないのだ。
 僕は一つの結論に達した。ジュディはもう僕などに関心はない。だが僕
は変われない。ジュディに聞きたい。僕をどう思っているのか。はっきりさせ
てほしい。もう逃げるしかない。全てが終れば何も感じないだろうから」

 「ああ、僕は間違っていた。僕を助けてほしい。ジュディだけが僕を助け
てくれる。僕は疲れてしまった。今の僕は何も出来ない。もう数週間した
ら、・・・」

 十月下旬、茂夫はジュディへの手紙をオーケストラノメンバーに託した。
だが、返事はなかった。いくら待っても返事がないことに茂夫は絶望した。

 ・・・・実は手紙を託されたメンバーが忘れてジュディに渡さなかったのだ。
これが運命を決めてしまった。

 「僕はジュディに声をかけた。だが返事はなかった。もうジュディに頼らな
いことにする。僕はもう疲れてしまった。」

 「僕を本当に思ってくれる方へ
 策や彼女に別れを言って、全てが決まった。この夏、全く希望などなか
った。僕自身、すべてを忘れようとして、いろんなことをやった。ただ幸福
になりたくて友人をたくさん持ちたいと思った。しかし、心の中のどこかで
この世から逃げ出すことを決めていた。(中略)NYに戻ったとき、人生が
恐ろしかった。しかし再びジュディと逢った。気持が戻った。その後、いつ
もジュディに惹かれていた。彼女こそ僕を幸せに出来るただ一人の存在
だ。核心は、僕は全てをジュディに捧げた。が彼女は僕を見ようともしない。
もう何も考えないことにしよう」

 茂夫の悲劇が起こって手紙を託されて忘れたメンバーは後悔に苛まれ
た。

 下宿先の女性には自画像「鎖でベッドに足をつながれて演奏している
自らの姿」を書いて見せていた。

 1957年11月1日、茂夫は日米協会を訪れた。いあわせたオーバートン
事務局長に「僕はたいへんなご負担になっている、と思います、日本に
帰ろうと思うんです」

 日ごろの茂夫の日本嫌いを知っていた事務局長は驚いた。だから「
無理に帰国させたら自殺のおそれもある」と精神科の医師も言っていた
のだ。それが突然の翻意だ。

 「今帰国したら皆、おかしいと思うよ」

 「そうでしょうか」茂夫は首をかしげた。

 翌、二日後もまた茂夫が現れた。「もう身許保証人になっていただかな
くていいです。すぐ日本に帰らせてください」

 翌日の三日は茂夫は終日、部屋にこもっていた。

 この日の午後、2階の小林健次の部屋を米国人がノックした。

 「建次、ちょっと心配なんだ。いま廊下で茂夫は私に錠剤を見せて『これ
を飲んで死んでやる』なんて言ってるんだ。大丈夫かな。私は仕事がある
ので見ていてやれないが」

 小林健次は茂夫の茶目っ気と思った。本気で死ぬ人間がそんなものを
人に見せるだろうか。小林は、どうすべきか、思案していた。

 その夜、12時近く、うとうとしていた小林健次は誰かが激しくノックする
音で目が覚めた。

 「建次、起きろ!茂夫が大変だ!」

 「何があった?」

 「茂夫が自殺したんだ」

 小林ははねおきて4階の茂夫の部屋に走っていったがすでに茂夫は
は運びだされていた。

 ニューヨーク市警に報告が入ったのは午後11時45分。パトカーが到着
した時は既に誰かがセント・ルークス病院に運んでいた。

 市警の報告書

 「男性、16才、黄色人種。シゲオ・ワタナベは特定できない睡眠薬を飲
んで明らかに自殺を計った。個人的にセントルークス病院に運ばれた。
 ジャパンソサイアティによれば本人は重体で面会謝絶。医師はスコポ
ラミンとメサフィリンを服用したのが原因としている。この大量摂取は危険
である。失恋で精神がめいっていた、との証言もある。要望で捜査は打
ち切る」

 ただちに全力を挙げての茂夫の治療が始まった。意識不明で瞳孔散大
。自律神経失調で発汗しない。そのため体温は急上昇して40度を超えて
いた。全身は反り返っていた。胃の洗浄したが薬物は既に吸収されていた。
呼吸困難が始まった。痙攣が顕著。服毒から治療開始まで7時間経過。

 小林健次も病院に来たが、「口も利けず私が誰かもわからない。言葉も
話せない」

 外務省にNY総領事館からの報告

 「目下、当地でバイオリン研修中の渡辺シゲオは米国人娘に失恋し、そ
れを苦にして、昨日3日夜m多量の睡眠薬で自殺を企て、重体になって
いるところを発見され、直ちにセント・ルークス病院に搬送された。あらゆる
治療がなされたが、午後にいたっても危篤状態は変わらず、担当医師の
話では、回復の見込みはなく、命は取りとめても脳が破壊されているため
通常の生活はおろか、寝たきりになって精神機能もないであろう、という
ことである」

 渡辺季彦はこれを信じることはなく、終始一貫、自殺など責任逃れで
あって、何者かの陰謀によるものだ、と信じて疑がわなかった。

 茂夫の治療費は莫大になっていった。協会の茂夫のためのお金は
すぐに枯渇した。若井一朗は米国が責任を持って面倒見るべき、と主張
した。

 結局、それは無理と分かり、茂夫を帰国させる、こととしたが、この
重体の半死半生の患者をどうやって遠路はるばる帰国させるか、が
問題になった。

 若井は協会会長に掛け合って渡辺茂夫基金を創設することを認めさせ
た。茂夫が生涯に得る金額は想像を絶する大金だろう。それだけの金が
あれば茂夫を帰国させても療養生活を余裕を持てt遅れる、と踏んで若井
は自ら付きそって帰国させることとした。

 日本航空は断った。ノースウェストが受諾した。コクピットの後ろの特等
席にある四つのベッドの一つに茂夫を固定した。若井が付き添っていた。
鼻にはvチューブ尿を取るカテーテル、他の乗客は何事か、と怪訝な顔
をしていた。

 機内で茂夫は暴れ、わめき、他の客は必死で耐えた。

 昭和33年1月16日、羽田に到着した。そして渡辺季彦などの待つ自宅
に到着した。・・・・・・

 テレビ朝日の番組では

 若井氏いわく「脳の表面が壊れてしまっていて、喜怒哀楽はかろうじて
あるようだったが、四肢も動かせず全く動けなくなっていた.全身は硬直
し、けいれんが続いていた」

 ・・・・脳の表面が壊れていた、・・・とは開頭したのだろうか。・・・・
睡眠薬多量服用のためとされる。

 だが養父の渡辺季彦氏は生涯、その死の原因を追究し続け、「茂夫
が自殺なんかするはずないじゃないですか。NYの新聞記者によれば
茂夫はギャングの陰謀に巻き込まれたんですよ.。これは、はっきりして
いることなんですよ」(89才のとき、テレビ朝日放送番組で)

 ・・・・・渡辺季彦氏は鎌倉でバイオリン教師(レッスン)の傍ら91才まで
茂夫が58才で亡くなるまで40年間、必死の介護、リハビリを行い、最後
は何とか支えたら歩けるていどにまで回復させた。しかし帰国後、言葉を
発したことは一度もなかった。

 TV]で放送されたその時の茂夫と風呂に入れて食事もさせる季彦氏
(当時89才)のそのに気丈な姿。あまりに愛情に満ちて献身的な季彦
氏である。

 なおこの時、番組スタッフが茂夫氏に何度かコンタクトを計り、最初は茂
夫氏も警戒心を示していたが、徐々に完全に打ち解けてくれたそうである。

テレビ朝日で放送された茂夫死去2年まえの番組のゲストとして出演され
ていた服部克久先生が

 「さらに経験を積んで上達し、彼が最高の名器で、そして現在の録音技術
の中で演奏していたら、どれほど素晴しいものが出来ていたことか。日本は
まさに宝を失った、ということなんです」

 は、まさに至言と思われます。

 それにしても半生半死の状態で帰国、動けず、言葉もなく、感情も失せた
茂夫を必死の介護で支えた養父の季彦は茂夫が1999年8月15日、58才で
亡くなるまで二人で41年間、肩を寄り添って鎌倉で生きたのである。

 その画像と渡辺茂夫ノメモリーフォット。









茂夫がバイオリンを始め、猛訓練で涙の跡が残る子供用バイオリン

 
























 羽田から大勢の見送りの歓呼の中、出発する渡辺茂夫。



 見送りに渡辺季彦氏の姿も見える。



  茂夫と共にジュリアードでバイオリンを学んだ小林健次氏

  


フルブライト交換留学生でNY近郊の病院に留学中の若井一朗氏

 





渡辺茂夫作曲 ヴァイオリン・ソナタ
ミッテンヴァルト
木野雅之

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神童/幻のヴァイオリニスト?渡辺茂夫
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渡辺茂夫

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