OLAFの陸軍登戸研究所見学(’15年3月7日 登戸研究所) 

今日は陸軍登戸研究所見学だ。
日吉台地下壕、靖国神社に次ぐ第三弾が此処だ。
良く解っている先生の説明と今日はこの研究所の設立の立役者の一人の渡辺先生が話をして頂けるとの事。
行った事が無い所、楽しみだ。


小田急線生田駅で下車。
明治大学のキャンパスへ。

登戸研究所は、戦前に旧日本陸軍によって開設された研究所。
秘密戦兵器・資材を研究・開発していました。
正式名称は第九陸軍技術研究所ですが、研究・開発内容を決して他に知られてはいけなかったために、「登戸研究所」と秘匿名でよばれていました。
戦争の歴史から消された研究所です。
登戸研究所は、アジア太平洋戦争において秘密戦の中核を担っており、軍から重要視された研究所でありましたが、終戦とともに閉鎖されました。
その後、1950年代に登戸研究所跡地の一部を明治大学が購入し、現在の明治大学生田キャンパスが開設されました。

小高い明治大学の丘にエスカレータで登って行くと、生田門が有ります。
更に右手に向って坂道を登っていきます。
上りきって校舎エリアにでたとこ ろの右手に神社があります。
明治大学の案内には生田神社となっていますが、弥心(やご ころ)神社というのが本来のものと思います。
歴史のある神社の様です。


小さな神社ですがその境内には「登戸研究所跡碑」と標された石柱が立っています。
ただ、「登戸研究所」というのは俗称であって正しくは「陸軍第九技術研究所」と表すべ きかと思われますが、歴史から消された研究所です。
研究内容が秘匿を要するためというだけにその存在すら秘匿とされ、正式名称は伏せられたのだということです。

裏面には「すぎし日はこの丘に立ちめぐり逢う」と言う言葉が刻まれていました。

渡辺先生の説明によると
”戦後37 年を過ぎた1982(昭和57)年になって登戸研究所に勤務し「青春」を過ごしていた人々が再会し登研会を結成し,碑の建立の立案をしたのである。
そして6 年後に会員のカンパで明治大学の許可を得て,現在の場所に碑は建立された。
碑文の案も当初は3 案だされ,会員の投票で正面には「登戸研究所跡碑」そして裏面には「すぎし日はこの丘に立ちめぐり逢う」という「想い」をこめた句が刻まれた。
「私は当初,この句に違和感を感じていた。しかし,登戸研究所に勤務していた方々に接するに従ってしだいに分かるようになっていった。
この句はまず「すぎし日は」できって,当時を想い起こしてはじめて理解できるのである。
この丘で行った出来事の重さや戦争中にもかかわらず恵まれた環境,戦後も家族にも話せなかった孤独感などがすべて凝縮されている。
そしてそれから解放される日が近づいたことを示していたのである。
登戸研究所で働いていた科学者・技術者が戦中・戦後をどのように過ごしてきたかを考えたいものである。”
との事であった。

現在の明治大学生田校舎の正面入り口の裏手の目立たないところに「動物慰霊碑」がある。3 メートルくらいある立派なものである。


研究のために犠牲になった実験動物のための「動物 慰霊碑」です。
昭和18年に建立されたということですが動物の慰霊という には不相応に大きいものです。
それにはわけがあって、人体実験犠牲者の慰霊碑を建てる わけにはいかないのでこのようにしたのだと考えられています。
この場所では人体実験は行われていなかったようですが731部隊と深いつながりがあった様です。

キャンパス内メイン通路に陸軍の象徴である星のマークの入った消火栓を見 ることができます。
陸軍のマークのある消火栓 一つは左の画像のもので図書館の前にあります。
しかしそれでも大切なも のを残すかのように四角く囲まれてその存在が忘れられないようになっていました。


研究所の5号棟の跡地です。
当時は高い塀に囲まれていて、研究所内部でさえもさらに秘密にされていたというこ とです。



いよいよ資料館へ入ります。
意外と小さい物でしたが、残された研究所の建物を利用して作られたそうです。


第1展示室です。
登戸研究所の活動の全体像と歴史が説明されていました。
研究所の建物をそのまま利用しているとの事で天井は高かったです。


第2展示室は研究所のなかでも風船爆弾や電波兵器など、主に物理学を利用した兵器の開発をおこなっていました。
風船爆弾は、和紙をこんにゃく糊で貼りあわせた気球に水素ガスを充填し、その下に高度維持装置と焼夷弾などの兵器を吊るしたもの。


偏西風に乗せ二昼夜半かけて9千キロの距離を飛行。
アメリカ本土を直接攻撃する大陸間横断兵器として開発された。
実際に9300発が放球されたと伝わり、アメリカに到達・着弾が確認されたものが361ヶ所。
オレゴン州で、6人が死亡するという被害があった。


和紙もあちこちから集められたようです。
それを動員された女子がコンニャクのりで張り合わせて、作ったそうです。
和紙の見本を触るとホントに柔らかく丈夫でした。


登戸研究所の風船爆弾開発の最高責任者であった草場少将は、風船爆弾は戦力としてはほとんど認むべき効果はなかったことを素直に認めていた。
しかし、数百個の気球はともかくも八千キロの太平洋を翔破してアメリカ本土に到達したことは、明白な事実であった。
風船爆弾の被害は、アラスカ、カナダ、アメリカ本土、からメキシコにいたる広範囲に及んでいた。
風船爆弾の落下場所、件数の多かったのは合衆国西海岸オレゴン州の40件を筆頭に、モンタナ州で32件、ワシントン州で25件、カ リフォルニア州で22件、ワイオミング州、サウスダコタ州、アイダホ州が8件づつ、あとは6件以下であったが、すべての州に最低1件の事故があった。
カナダでは、西海岸ビリティッシュ・コロンビア州の38件を筆頭に、アルバータ州の17件、サスカチュワン州8件マニトバ州6件ほか北方ユーコン地区、マッケンジー地区にも5件、風船爆弾が到達していた。アリューシャン列島をふくむアラスカでは30件を数えた。
爆撃当初は、原因不明の爆発事故、山火事が相次ぎ、不発気球確保が各地報告されて人心を極度に攪乱し、心理作戦としては成功したのである。
アメリカの政府や軍部は緻密な防衛作戦を練り、日本からの長距離爆撃に備えなければならなかった。
アメリカ西海岸防衛参謀長ウイルバート代将が、戦後「リーダーズ・ダイジェスト」誌に発表した著述によれば、これらの事故、事件に対する防衛のため防火隊が組織された。また回収された浮力回復用砂のうなど得体の知れないものには間違いなく化学兵器か細菌戦の媒体が使われていると推察し、防毒資材や細菌剤が要所に集積されていたとのことである。
「日本からの気球兵器到達に関して絶対に情報を漏洩させるべからず」と厳重な報道管制が布かれ、ラジオ、新聞、雑誌等に箝口令がでた。 
それはアメリカ合衆国の最高命令であった。
国内に報道することも、国民の人心攪乱を担っていると予想される日本の心理作戦の術中に嵌ることを避けるためであった。
さらにそれが外国の情報機関から日本政府や軍部に伝われば、ますます気球攻撃に拍車をかけることになってしまうからである。
攻撃当時、厳重な報道管制でこうしたアメリカの成果を得ることができなかった。
実害は小さかったが、心理的には大きな成果があった といえる。

第3展示室。
人体、家畜、作物に被害を与える生物兵器、暗殺用などの毒物、そしてスパイ機材などの研究開発を行っていた。
表彰も受けていた。

第4展示室。
主に中国大陸で展開された経済謀略活動のために偽札を製造していた。

中国経済の攪乱を目的に1939年に参謀本部によって命じられた中国蒋介石政権の紙幣(法幣)の偽造には、当時の最高水準の紙漉き・透かし・印刷技術が用いられました。
1942年以降、大量生産された偽造紙幣は当時の額面で40億円(1945年の日本の国家予算の5分の1相当)にのぼったとされています。

偽札の流通は、支那の金融を攪乱して法幣の信用を失墜させただけでなく、偽札使用によって現地での物資の調達に大いに寄与した。
偽造ニセ札作戦は試作に失敗を重ね、試行錯誤の連続を経てようやく量産体制を整え、製品を「杉機関」に渡すまでには長時日を要したのである。
偽札工作の宰領には、陸軍中野学校の出身者があたり、毎月2回ほど長崎経由で海路上海へ届けられた。
現地では「松機関」が流通工作を担当した。機関長は陸軍参謀の岡田芳政中佐だったが、実質上の責任者は軍の嘱託で阪田誠盛という実業人であった。
阪田氏は、流通工作のため上海を中心とする暗黒街を支配していた秘密結社「青幣」の幹部の娘と結婚して協力をとりつけ、青幣の首領で蒋介石の腹心でもあった杜月笙の家に「松機関」の本部を置いていた。
敵側の偽札に対する摘発、妨害はなく消極的であったばかりか、偽札の横行に対し「流通過程に於いて、むしろ適当であったと思える」 との発言も関係者側にあった。
とくに香港占領後、第3科は敵側の印刷機、資材を入手して偽造工作をしていたが、国民政府としても真贋判別ができない以上、黙認して、逆に偽造を利用してインフレ防止に役立たせていたという判断が適切であった。
高額紙幣を使う時に新札だと疑われるので古紙仕上げまでして送り出していたとは、驚きだった。


第5展示室。
本土決戦体制下の登戸研究所と所員の戦後などについて展示されていた。
石井氏濾水機濾過筒。
が細菌戦部隊を管轄する防疫給水本部が自分たちの生き残るための秘密兵器として管理していたもの。
それが本土決戦体制の末期に長野県に大量に供給されていたのである。

今では災害緊急時に水を濾過して飲料水に変える道具として使われている様です。


免責された戦争責任。
アメリカ政府は、戦争終結から秘密戦に関わる情報を収集しようとしました。
それは冷戦が進む中で、ソ連よりも早く、そして効率よく生物化学兵器の開発と実戦に関するデータやノウハウを入手することに目的がありました。
しかし、敗戦直後のアメリカによる日本の秘密戦の調査および関係者への尋問はスムースには進みませんでした。
アメリカは冷戦が進むなかで、ソ連によって秘密情報が暴露、独占されることを恐れ、日本側へ免責を条件に、非協力的であった秘密戦関係者に情報提供を促しました。
そして、アメリカは731部隊や登戸研究所に関わる人々から、情報やサンプルを入手しました。
こうして日本の秘密戦研究と、その実戦に関わる戦争犯罪は、東京裁判で不問に付され、意図的に歴史の闇に葬りさられました。
同時にアメリカは日本軍の化学兵器について裁くことは、これからの自国の使用を妨げる要因になるとも考えていました。
その後、アメリカに渡ったデータとノウハウは、朝鮮戦争やベトナム戦争などに継承されていきます。



太平洋戦争が終わったのが1945年8月です。あれから今年8月で70年になります。
最近8月になるとテレビなどで、少しずつ隠された事実が取り上げられるようになりました。
しかしそこに登場してくる人々は90歳前後の方々です。
重い口を開き、闇に葬られていた事実をとつとつ語りかけられます。
その方々にとっては重苦しかった、貴重な青春時代の体験だったのです。
個々人は、罪はどうであれ大きな国家権力で動かされた小さな駒にすぎません。
ご高齢で年齢的に、どうにか間に合ったという感しがします。
この方々が、今、口を開かなければ、真実は永遠に闇の中に消えてしまったでしょう。
と語られた渡辺先生。

語り続けていくことが我々の責任でしょう。

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