聴覚障害と一緒に55年ーT.地域の学校で共に (松山美幸)

 

2017年11月15日のすいごごカフェにゲストとして来ていただいた聴覚障害者・松山美幸さんのお話のまとめはfacebookでお伝えしたが、彼女は予め原稿を用意してトークに臨んだ。その原稿をいただいたので、このブログに2度に分けてご紹介する。

今回はそのT.で、聾学校に行ったことのない聴こえない子どもが地域の学校でどのように学び、育ったかについて。

8月の暑い日に日吉さんのお話を聞きに来て、けっこうドラマチックな話しに感動しました。
日吉さんが私に関心を持ってくれたと言うことで、今日は私がお話をさせていただく事になりました。
聴覚障害と一緒に55年という題でお話しさせていただきます。

1)私の生い立ち いじめや孤立あったが

昭和33年に葛飾区で生まれました。産まれたときは聞こえていたようです。
3歳の時にストレプトマイシンの薬害で聞こえなくなりました。聞こえていた頃のことは全く記憶にありません。親戚には歌を上手に歌ってた。と聞きました。

小学校は当日住んでいた葛飾区芝原小学校に入学しました。小学校2年から青戸小学校に転校しバスで通学しました。青戸小学校には難聴学級がありました。

小学校3年の時に板橋区の難聴学級がある学校にまた転校しそこを卒業して、当時住んでいた練馬区の中学に進学しました。そこには難聴学級はなく、そこからまた離れた中学に難聴学級があるので、そこへの進学を勧められましたが、当然通える近くの中学に通いたいので、拒否し難聴学級の無い通常学校を卒業しました。

難聴学級と言うのは、普通校の中に設けられていて、難聴の子どもが通常学級で授業を受け、通常学級と言う
のは国語と算数の時間に難聴学級に行きそこで難聴の子だけが、国語と算数の強化訓練みたいに、授業を受けたり、どのくらい聞こえないのかのテストをしていました。

今考えるとその事にどんな意味があったのか?と疑問に思います。現在は難聴学級とは言わず『聞こえと言葉の学級』と言って、普通校に在籍している聞こえにくい子どもが、聞こえと言葉の学級に通っているようです。

何の判断かわかりませんでしたが、ろう学校は全く足を踏み入れた事は無かったです。

そこから私立の高校に行き卒業しました。高校も私立の普通校に行きました。女子高で一クラス60人程いて、友達がたくさん出来てとても楽しく過ごしました。ですがやっぱり勉強を真面目にしませんでした。なので当てられると答えられず、引っ込み思案で人の前に出るのが大嫌いでした。

あの頃の自分に今の自分を見せると、びっくり仰天かもしれません。


2)通常学級で学んだこと いまふりかえってみると

聞こえなくて勉強がわからないのに通常学校に通学したことについて、今振り返ってみることにしますと
結論としてはよかったかなと思います。

・ろう学校に行ってもきちんと勉強を教えてくれる訳ではないこと。

・手話が第一言語にならなかったこと

・健聴者の中に入るのが苦手ではなかったこと

・あの頃きちんと勉強しなかった後悔から、現在も勉強を趣味としていること
等です。

小学校卒業間近には、担任の先生の意向で、小学校の漢字をすべて書けるようになるまで、テストテストテストの連続で、ここで初めて勉強する楽しさを感じました。

だけど、とにかく虐められました。青戸小学校では同じ学年の難聴の子どもが6人いましたが、板橋区の小学校では各学年に1人しかいなくて、少数派は徹底的に除外されました。先生に言っても、最初は取り合ってくれましたが、何回も続くとげんなりされる顔を見て私の話しを聞いてないふりをしていました。

小学校の頃は悲しい思い出しかなかったです。そのせいか、休み時間に一緒にトイレに行く友達がいなくて、ずっと1人行動でした。今も友達や家族に行動するのも好きですが、1人行動も好きです。

先週月曜日火曜日も1人で奈良の正倉院展に1泊で行って来ました。

中学の頃は、友達がいなくてひとりでいつも居たような記憶が強いのですが、部活動で体操をやっていたことやしょっちゅう図書館に行って本を読むのがすごく楽しかったです。

中学は教科ごとに先生が変わりますが、国語の先生は3年間同じ先生で、ずっと私の目の前に立って、机の前に張り付いて授業をしてくださいました。目の前に立っていたので、つばが飛んできたりしましたが、眠くて国語の授業を聞かない訳にいかず、国語だけは得意でした。その先生には今でも大変感謝しています。

先月に中学卒業以来の同窓会があり、何十年ぶりに同級生と会いましたが、みんな私の事を覚えていてくれて、思い出話に花が咲きました。意外でした。

みんな私を相手にしてくれなかったと思っていたのですが、そんな事は無かったのか?それともみんな大人になって様々な経験を積んできて、丸くなったのかな?と思いましたが、やっぱり同級生はいいなあと思いながら帰りました。四年後の同期会での再会を約束してきました。

ここまでが学生時代の話です。



3)両親の仲が悪い家庭がいやだった

振り返ってみると、家庭では両親の仲が悪く、いつも父の怒鳴り声が響いていました。離婚すると言って、母が家を出て言ったことも何回もありましたが、しばらくすると帰ってきました。

後からなんで帰ってきたの?と聞いたことがありますが『帰るところが無いから』と言っていました。

話は飛んで、2年ほど前に母は発達障害と診断されました。

診断された時に、過去のすべての事につじつまが合ったように思いました。どこか普通じゃない母親でした。なので産まれたときは聞こえていたけど後から聞こえなくなった私を受け入れがたかったようで、よくいじめられました。

しょっちゅう棒で叩かれたりモノを投げられたり髪をつかまれたりと、今で言うと虐待ですね。父も九州男児だからか、若い頃はワンマンでした。母によく怒鳴り付けていました。

そんな家庭がすごく嫌でした。両親が大嫌いでした。子どもの頃は愛されたと言う実感が全くありませんでした。

あたたかい家庭というモノが感じられませんでした。


ここまで松山さんの文章の1/3 を紹介しました。「聴覚障害と一緒に55年」次回は、「U.共に働く職場の実態は」(仮題)をご紹介します。乞うご期待!
 
2017年11月15日のすいごごカフェにゲストとして来ていただいた聴覚障害者・松山美幸さんのお話のまとめはfacebookでお伝えしたが、彼女は予め原稿を用意してトークに臨んだ。その原稿をいただいたので、このブログに2度に分けてご紹介する。

今回はそのT.で、聾学校に行ったことのない聴こえない子どもが地域の学校でどのように学び、育ったかについて。

8月の暑い日に日吉さんのお話を聞きに来て、けっこうドラマチックな話しに感動しました。
日吉さんが私に関心を持ってくれたと言うことで、今日は私がお話をさせていただく事になりました。
聴覚障害と一緒に55年という題でお話しさせていただきます。

1)私の生い立ち いじめや孤立あったが

昭和33年に葛飾区で生まれました。産まれたときは聞こえていたようです。
3歳の時にストレプトマイシンの薬害で聞こえなくなりました。聞こえていた頃のことは全く記憶にありません。親戚には歌を上手に歌ってた。と聞きました。

小学校は当日住んでいた葛飾区芝原小学校に入学しました。小学校2年から青戸小学校に転校しバスで通学しました。青戸小学校には難聴学級がありました。

小学校3年の時に板橋区の難聴学級がある学校にまた転校しそこを卒業して、当時住んでいた練馬区の中学に進学しました。そこには難聴学級はなく、そこからまた離れた中学に難聴学級があるので、そこへの進学を勧められましたが、当然通える近くの中学に通いたいので、拒否し難聴学級の無い通常学校を卒業しました。

難聴学級と言うのは、普通校の中に設けられていて、難聴の子どもが通常学級で授業を受け、通常学級と言う
のは国語と算数の時間に難聴学級に行きそこで難聴の子だけが、国語と算数の強化訓練みたいに、授業を受けたり、どのくらい聞こえないのかのテストをしていました。

今考えるとその事にどんな意味があったのか?と疑問に思います。現在は難聴学級とは言わず『聞こえと言葉の学級』と言って、普通校に在籍している聞こえにくい子どもが、聞こえと言葉の学級に通っているようです。

何の判断かわかりませんでしたが、ろう学校は全く足を踏み入れた事は無かったです。

そこから私立の高校に行き卒業しました。高校も私立の普通校に行きました。女子高で一クラス60人程いて、友達がたくさん出来てとても楽しく過ごしました。ですがやっぱり勉強を真面目にしませんでした。なので当てられると答えられず、引っ込み思案で人の前に出るのが大嫌いでした。

あの頃の自分に今の自分を見せると、びっくり仰天かもしれません。


2)通常学級で学んだこと いまふりかえってみると

聞こえなくて勉強がわからないのに通常学校に通学したことについて、今振り返ってみることにしますと
結論としてはよかったかなと思います。

・ろう学校に行ってもきちんと勉強を教えてくれる訳ではないこと。

・手話が第一言語にならなかったこと

・健聴者の中に入るのが苦手ではなかったこと

・あの頃きちんと勉強しなかった後悔から、現在も勉強を趣味としていること
等です。

小学校卒業間近には、担任の先生の意向で、小学校の漢字をすべて書けるようになるまで、テストテストテストの連続で、ここで初めて勉強する楽しさを感じました。

だけど、とにかく虐められました。青戸小学校では同じ学年の難聴の子どもが6人いましたが、板橋区の小学校では各学年に1人しかいなくて、少数派は徹底的に除外されました。先生に言っても、最初は取り合ってくれましたが、何回も続くとげんなりされる顔を見て私の話しを聞いてないふりをしていました。

小学校の頃は悲しい思い出しかなかったです。そのせいか、休み時間に一緒にトイレに行く友達がいなくて、ずっと1人行動でした。今も友達や家族に行動するのも好きですが、1人行動も好きです。

先週月曜日火曜日も1人で奈良の正倉院展に1泊で行って来ました。

中学の頃は、友達がいなくてひとりでいつも居たような記憶が強いのですが、部活動で体操をやっていたことやしょっちゅう図書館に行って本を読むのがすごく楽しかったです。

中学は教科ごとに先生が変わりますが、国語の先生は3年間同じ先生で、ずっと私の目の前に立って、机の前に張り付いて授業をしてくださいました。目の前に立っていたので、つばが飛んできたりしましたが、眠くて国語の授業を聞かない訳にいかず、国語だけは得意でした。その先生には今でも大変感謝しています。

先月に中学卒業以来の同窓会があり、何十年ぶりに同級生と会いましたが、みんな私の事を覚えていてくれて、思い出話に花が咲きました。意外でした。

みんな私を相手にしてくれなかったと思っていたのですが、そんな事は無かったのか?それともみんな大人になって様々な経験を積んできて、丸くなったのかな?と思いましたが、やっぱり同級生はいいなあと思いながら帰りました。四年後の同期会での再会を約束してきました。

ここまでが学生時代の話です。



3)両親の仲が悪い家庭がいやだった

振り返ってみると、家庭では両親の仲が悪く、いつも父の怒鳴り声が響いていました。離婚すると言って、母が家を出て言ったことも何回もありましたが、しばらくすると帰ってきました。

後からなんで帰ってきたの?と聞いたことがありますが『帰るところが無いから』と言っていました。

話は飛んで、2年ほど前に母は発達障害と診断されました。

診断された時に、過去のすべての事につじつまが合ったように思いました。どこか普通じゃない母親でした。なので産まれたときは聞こえていたけど後から聞こえなくなった私を受け入れがたかったようで、よくいじめられました。

しょっちゅう棒で叩かれたりモノを投げられたり髪をつかまれたりと、今で言うと虐待ですね。父も九州男児だからか、若い頃はワンマンでした。母によく怒鳴り付けていました。

そんな家庭がすごく嫌でした。両親が大嫌いでした。子どもの頃は愛されたと言う実感が全くありませんでした。

あたたかい家庭というモノが感じられませんでした。


ここまで松山さんの文章の1/3 を紹介しました。「聴覚障害と一緒に55年」次回は、「U.共に働く職場の実態は」(仮題)をご紹介します。乞うご期待!

BIGLOBEニュースロゴ

ニュースをもっと見る

最近の画像付き記事