工場労働が好き、障害は重くなったけどー佐藤秀一さん(すいごご)



工場労働が好き、障害は重くなったけどー佐藤秀一さんと母の語り  

            2018年9月5日(水)13:30−15:00 於:職場参加ビューロー世一緒(越谷市東越谷)

私たちが「就労支援」とか「共に働く」といった表現にとどまらず、あえて「職場参加」という語を用いるのは、障害者の就労や働くが、個別支援だけでなく、職場(事業主、同僚、顧客等)との関係を生きるという面をクローズアップするためでもあります。

 就労支援の一部としてのアセスメントやマッチングもたしかに「関係」の一面であり、それらを踏まえた「障害者雇用の好事例」とか、また表面化するのはごくまれな例である「雇用差別」や「労働運動」なども「関係」といえます。
 ただ、そうした切り口だけではなく、障害者本人や家族、できれば職場も含む、人々の語りをベースにした、生きられた関係の再構成がもっと取り組まれる必要があると思うのです。


1970年6月生まれです。ぼくは幼いころ(2〜4歳ころ)女の子にまちがえられました。(親が言ってます)
(越谷市立川柳小学校)5年生の時、のうしゅようという病気になり、越谷市立病院へ入院し(て手術をし)ました。同じ病気の5年生の男の子が入院して来ました。お友達になりました(木下君)。


(母:0才児の時、ひきつけを5,6回やった。学校で時々眠ってしまうので、初めは風邪かと思った。給食のお盆を落としてしまったこともあった。脳波を取ったら、握りこぶし大の腫瘍があったので手術した。手術が終わった後、もうろうとしていて「ジェットコースターが飛んでるよ」などと言ったりした。6年の時は165cmあった。中2で身長は止まった。おとなしかったので、友達は少なかった。病院で出会った友達がすごくよかった。脳腫瘍は手術後も残っていたので、放射線治療もした。放射線で頭の毛がなくなり、学校でいじめられたりした。現在は完治している。)


中学(越谷市立光陽中学校)卒業後おじさんの手伝いをしましたが、ついてはいけませんでした。(おじさんの仕事はとびで、ブロック積むのもやりました。給料を30万もらって惟年半くらいやりました。鉄骨の3階のところに上がって、物をあげるときに地震にあって、鉄骨にしがみついて「助けてくれー」と言ったら、ダンプの後ろを上げて、「そこにつかまって。降ろすから」と言われました。それでおじさんの仕事は無理だなと思いました。)

(母:おじさんは建築関係。釘打ちから始まるが、とんでもない所に打ってしまう。)




その後、入院の時の友達に「こっちに来いよ」と言われて、五反野のハルタの靴の会社に入りました。給料は15万円ぐらいです。流れ作業でした。木型が入った靴を艶出しの機械に入れて、艶出しが出来た靴をベルトコンベアーに下ろす仕事でした。9年間勤めましたが、リストラになりました。

(母:ハルタは、私が面接に同行した。正職で採用された。通勤は電車だった。ハルタに行ってた時は、会社でバーゲンがあり、家族みんなで買いに行ったこともあった。仕事が嫌になって休むとか、今日は帰るとか、一回もなかった。)


今度は草加市のハローワークの紹介で、フナショクパンでの流れ作業のパートで7年間勤めました。給料は10万円ぐらいでした。(汚れた箱をベルトコンベアーで来るのを取って、機械に入れてボタンを押すと自然にきれいになって、向こうの人がそれを取って、大きいのは15段で、小さいのは10段で、作ってるところに持ってって、一日置いて全部乾かして、そして次のパンを入れる。)会社が移動するのでやめました。

(母:フナショクはパートだったが、厚生年金も入っていた。バイク通勤だった。バイクは鴻巣まで一人で行って7回も試験を受けた。やめなさいと言ったが、行く、行くと言って、7回目に取れた。最初は取れたと信じられなくて。脳梗塞になる前は、ずっとバイクに乗っていた。フナショクは工場が千葉の方に行っちゃうので、そこにいた何百人かの人たちに会社としていろんな会社をあっせんしてくれたのだが、いいところがないのでハローワークに行った。)


その後、越谷にできたハローワークの紹介で、障害者の手帳を取り、いくつか仕事を探しましたが、みつかりませんでした。脳梗塞になる前は、友達と日光や鬼怒川へ旅行しました。34歳と37歳の時、脳梗塞になってしまいました。右がマヒし言語がうまくゆかず、リハビリに行ってます。(上の写真は世一緒に来てから間もないころ)

(母:ハローワークの紹介で、ゴムの会社、飼料工場、缶の選別の工場など見学したが、段差があって足元が危ないなど、合った職場がみつからず、2度目の脳梗塞の後は通所施設からも狭いから危ないなどと言われて断られた。)




そうしたらハローワークの人が、目の前に世一緒っていう建物があるからそこに相談してみたらと言って、教えてくれました。

いま、越谷とせんげん台の両方の世一緒に通って、はと笛と革の財布を作っています。自分の作った笛や財布が売れるとうれしいです。これからもがんばって作っていきたいと思います。





(母:動作が遅くてみなさんに迷惑をかけているんじゃないかと思う。でも、ひきこもりじゃなくて、出るのが好き。近所でもえらいねとよく言われる。早く出かけて行くのはいいが、たこ焼きを食べていたとか、時々ニュースが入る。朝は3時半か4時に起きている。夜は8時には寝ている。朝は暴れん坊将軍か、ビデオで相棒とか見ている。9時くらいまで時間があると、30分位熟睡してしまう。装具があると外へ出て行ってしまうので、装具をしまっておいたら、装具なしで出て行こうとした。危ないでしょ。)




内野「一緒にポスティングをやったが、がんばり屋という印象がある」

母「雨で大変だったでしょと言うと、大丈夫。疲れたでしょと言うと、疲れない。でも間もなく寝てしまう。」

沖山「佐藤さん、人生はどんな感じ?」 

佐藤秀「いい感じ」

日吉「あらたまって聞く機会がなかったが、ひとりひとりの人生を聞くと、すごいなあと思う。佐藤さんは仕事が大好きなんですね。うまくはまるところがあれば、働くこと可能だと思いながら聞かせてもらった。」

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